世の中は、これからもしばらくは、苦痛の時代を経ていくのかな とか思う中、
そろそろ絶対快楽の時代になってもいいんだろう。
苦痛とは、人が上位次元にシフトする過程で経験する感覚の総称であるが、ウチの会でも、今年の神事では、この苦痛をことに多大に経験する人々が多いようだ。
先日話した人は「肉体の苦痛がやっぱり一番つらい」と言っていた。
だが私は精神の苦痛が一番つらいな、という経験をしてきている。そこに存在するだけで、人々の想いが無数の針となってつきささるような苦痛である。
そんなわけなので、苦痛というのは、何が一番辛いかというと、その時、その瞬間感じている苦痛が一番つらいのである。
どの苦痛であっても、そのときに感じている苦痛がつらい。そして、それが肉体の苦痛であったら、「やっぱり肉体の苦痛が一番辛いなあ」と思うし、精神的な苦痛を感じると、「やっぱり肉体の苦痛より精神的なものが辛い」と思うのである。
なおかつ、
波動シフトの過渡期に感じる苦痛は尋常ではないものも多い。
私は長年苦痛に満ちた過程にあったが、今、ようやく少し楽になりかけてきて、他の祈り人が苦痛を感じているのを見たり聞いたりして、この人もその過程に入ったのか、と思ったりする。
しかし言ってみれば、その過程に入ったということは、輝かしい未来が待っていることも意味しているわけである。
さて、祈り人ですらそうなので、今後、波動レベルがさらに低い人たちは、どうなのだろうと思ったりする。
もちろん私は彼らにあまり苦痛を感じてほしくない。私は彼らの今後経験するであろう苦痛の一部を引き受け、昇華する役割に属しているからだ。
それはこれまで私の苦痛であったし、言ってみれば私の苦痛の大半を占めていたと思うが、それは私の器が苦痛で満杯で、しかも逃げ場のない、「閉じた場」だったからである。
「閉じた場」において、引き受けた苦痛はそのままそこにとどまり、私自身が何らかの方法で自らの場に光を呼び込んで中和させるまで続くことになる。
厄介である!
だが私のチャクラが本格的に開き、開いた先が愛であるというほどになれば、引き受けた苦痛はほぼ即座に歓喜に変換される
※もちろんチャクラは開けばただ愛に向くわけではなく、やみくもに開けば低レベルの波動が流れ込んできて、いいようにされてしまう。霊的に敏感な人の落とし穴ともなりうる。私は特に霊的に敏感ではないが、それでもチャクラを開くには用心が必要だ。
ことに体の外側ではなく、体に密着したチャクラは開きにくく、開くときも注意しなければならない。今愛に向けてチャクラを開く想いの鍛錬に専心している。
さていずれにせよ私という場が「私」という閉じた場ではなく、真我という神領域に開かれた場になれば、惹きつけられたネガティブ波動はすぐに私という場から上位領域へと吸い出され、迷い戸惑うおびただしい魂たちは、私を介して上位次元に昇っていく
今私の周囲に、足元に、
そうした魂たちが、わたしが上位次元に開くのを今かと待っている。
彼らを引き上げるとき
それは絶対快楽の世界
肉体レベルでかつて経験したことのない快楽に終わりはなく、引き換えにしなければならないようなペナルティはない
絶対快楽の領域に入ると、
「悟り」に入るためになぜ「苦痛」が必要だったのかな? と、苦笑交じりに振り返る、本来の解脱の過程を知ることになる
「私」の絶対快楽の時代は
とりもなおさず、おびただしい人々がバラ色になる時代である それはなぜか?
それは私の苦悩や快楽は彼らのそれであり
彼らのそれは私のそれであるからだ
そこで私は気が付く
仏教において、
自利利他という
自己を滅却せよという
だが自利利他はない
なぜなら他がないからである
自己は滅却しない
自己は拡大するのである
すなわち人は、
「自分のことしか考えず、他のことなどどうでもいい」
でいいのである
ただ 「他」がなくなるのだ
真我とは全部なのである
全部である私とは、
背後で究極的に全部であるものの
一つの表現であり 個性である
すなわち、
全部であり、
真我であるとは
よりその人の個性が輝くことなのである
自分をなくさず、鮮やかなまでに個性的である
自分を他と分別しない すべて同一である
この二つが同時に成立する真実であると知るとき
絶対快楽の時代の到来となる
自分をその時代に引き上げたいなら、
「自分のことはともかく、他の人のために・・・」
などと思うな
子供がアメ玉をねだるように
世界の平和を望め
バラ色に輝く世界が
もうそこにあるものとして想い描け
そのとき個我は溶けてゆき
我執は崩壊し エゴが死を迎える
真我が「私」に流れこんでくる。