ネガティブの攻略 ─内省の力で罪悪感を手放す─

天秤







  
    
      

地球さん

 ネガティブの手放しの中でも重要なものの一つに罪悪感がある。それは自分自身の中の、人を責め裁くという心理に由来している
    

   


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高貴なる光の皆様、いかがお過ごしでしょうか。





コロナ禍のなかにあって、その先を見据えて、今後起こりうるさまざまな「現れ」、そしてますます重要になるアセンションのキモについて解説しておりますね。



今回は、今一度、経済と財と富をテーマに考察し、その次にアセンションのキモについて深く考察していく・・・というつもりだったんですが・・・、
先日からネットで話題になっている話で、気になったものがあり、予定を変更して、それについて書きたいと思います。



それはいいけど経済の考察って・・? 確かこの間したよね・・飛ばしてアセンション話してくれていいけど・・・
とお思いの方もいるかもですが、私の印象では、あれだけでわかってもらえるような気がしていません。
私が、皆様が財と富というテーマがいかにスピリチュアルと無関係と思っているかに気づいたのは、一番最初にこれを取り上げたときでしたが・・。しかしアセンションの過程でも、ことに高度なアセンションを果たす意味においても重大なテーマですので、まだ続けていく必要があると思っています。




それはまた後日にゆずるとして、今回は、最近ネット等でさかんに話題になったある事案に、スピリチュアル的に重要なことが潜んでいると思われるので、その話をします。




まず先に、物質世界レベルでの考察をし、そのあとで、スピリチュアルな考察をしてみたいと思います。

(物質世界レベルの考察というのは、私が肉体レベルの脳でこの件をどう見るか、ということです。私の見解ということですから、あなたの見解と一致しないかもしれませんが、どちらが正しいとか間違っているとかいうつもりはありません。)









それは人気番組「チコちゃんに叱られる」等でもおなじみの人気タレント、岡村さんの話です。
彼がラジオである「問題発言」をしたということを、その数日後にどなたかがネットで取り上げ、それをきっかけに大炎上、大問題に発展し、「チコちゃん」の岡村さん降板を求める署名運動にまで発展する事態になっています。


ご存知でないかたは、この先を読む前に、まずこの件に関する記事を読んでみられた方がいいかと思います。この件についてどう考えるか、あなたご自身の心証を持たれたうえで、読み進んでみていただければと思います。




岡村さんへのバッシングは今も続いているようです。今後、「チコちゃん」降板するかどうかはわかりませんが、大河ドラマでも起用されているし、この方を重用してきたNHKさんも悩ましいところでしょうね。

私個人も、「チコちゃん」を最近見始め、面白くなってきたところだったので、このような問題が持ち上がるのは残念です。何がいいって「チコちゃん」のCGが素晴らしいのですね。さすがNHKさんです。あの番組だけのためにCG加工チームを作って当たらせるなんて、他の局ではまず無理でしょう。すばらしいCGに毎回見惚れています。




それはさておき、くだんのラジオ放送というのは、岡村氏が、深夜枠をかなり意識したと思われる、限定的なファン向けにやっているものです。ある人物がネットでこの発言を問題ありと取り上げるまで、私自身、番組自体を知りませんでした。






双葉 性差別・搾取とのバッシングが凄まじく、批判派が多いが、擁護派も一定数





ここでお知らせですが、ここからは、キモとなる言葉をイニシャルにして書きたいと思います。(もしくは、なるべくもって回った言い方をするように努めます。)


というのも、当ブログは今のところ無料ブログサービスを利用しているため、関係ない広告が出てきます。この関係ない広告が、本当に関係なくて、スピリチュアルと書けば、ブログとは全く関係ないスピリチュアルの広告が、関連サイトであるかのごとく出てきますしね。
それはまだしもで、性が絡むことを少しでも書くと、これがまた困ったなくらいの品性の低い広告が出てくることがあります。


私自身は、ブラウザ上でトラッキングの設定を変えて、そういった広告をなるべく見ないで済むようにしてるんですけど、これは読者の方それぞれのトラッキング設定によるので、私が見ないからってあなたが見ないとは限りません。
トラッキングは設定されたキーワードに応じてされるか、もしくはAIによる学習かと思われますが、いずれにせよプログラムですので、それほど賢くはありません。当ブログが何を言いたくて書いていたとしても、機械はそんなことまで理解してくれません。


なので、ヘンな広告を誘引しそうな刺激的な用語をなるべく避けるため、一部をイニシャルにして書きたいと思います。






さて、まず、この事態についての、私自身の、物質世界的な見解を述べたいと思います。もちろん、スピリチュアルな考察がこの記事の主眼ですが、その前に、まず、物質的な頭脳での考察から述べますね。




私は、現時点の状況においては岡村氏擁護です。当初は、不適切発言だと思っていたし、今も思っていますが、今時点の状況では、擁護に回る気持ちなりました。






ここからその理由を述べていきますが、その前に、皆様、
岡村氏の発言、実際に彼が何と言っているか、どういう風に言っているか、お聞きになってみましたか?



批判する場合は、その批判する対象について、できる限りの情報があった方がいいわけですが、このケースでは、本人の実際の発言を聞くことができます。


あなたがもし、私の見解を丸ごと信用するから必要ないよ、というのでなければ、実際に本人がなんと言っているか、その発言に際してどのような前後があって、どんな口調で言っているか、聞いてみた方がいいと思います。今時点でまだ上がっています。2020.04.23の放送分で、YouTubeにあがっています。すべて聞くのが面倒なら、そこの部分だけ抜粋したものもあがっており、比較的簡単に出てくると思います。


これほど問題が拡大されてしまってるのであれば尚のこと、批判するならまずソースを確認せよ、ソースが削除などでわからない場合は、賛否どちらかに偏らず当たれる情報をできるだけ当たって類推せよ、は、批判の基本と言えますね。





聞く際に注意したいのは、あなたの中で、すでにある程度の心証、つまり思考バイアスが形成されている可能性を自覚することです。
思考バイアスとは思考の「色眼鏡」です。擁護にせよ批判にせよ、色眼鏡をかけてしまっている可能性があります。
この発言は、問題視した人が批判したい気持ちで取り上げ、炎上させるまでになっていますので、それを読んだ人にも、批判側に傾いたバイアスがかかりがちな状況です。

そのままの心理で実際の放送を聞いても、あなたの思考バイアスは批判的にそれを受け止める可能性があります。もちろん、逆にあなたが擁護派の意見に傾いているとしても同じことです。
バイアスは、自分がかかっていることを意識しないと除去できません。



そこまでするのが面倒な場合は、ざっくり状況を知ったうえで、読み進んでみてください。




さて、彼の発言の問題は、コロナ禍で生活に困窮する人が出てくることを期待するように受け取れる点にあり、その意味では批判されても仕方がないと思います。

しかしそれは搾取と言えるでしょうか? そもそもF俗(トラッキング回避のため、一部イニシャルにしますね。これで回避できるかわかりませんが)ということが問題なのでしょうか?




彼の発言の問題点に関して、ある書き込みを見かけました。
たとえば何かのマニアの人がレアアイテムを持ってて、別のコレクターが、コロナによる経済的窮乏で、それを手放してくれるのを楽しみにしてる、と、口に出して言っちゃったようなものだ、というのです。



この例えは私の印象に近いです。岡村氏発言は、リスナーへの励ましとはいえ、誰かが窮乏するのを自分の楽しみに乗り切ろう、と言ってしまったことに問題があると思うので、問題なしと言い切る人にも違和感を覚えるのは事実です。



なので、彼の発言を全面擁護し「岡村さんは悪くない」と言い切る人には賛同できません。



また、擁護派の中には、「岡村さんの言うことは現実に起きると思う」という発言も見られますが、予測が当たるか当たらないかと、彼の発言が適切である、ないは無関係です。ですので、その意味で彼を擁護するのにも首肯しえません。





しかし、性搾取、性差別といった批判にも与しえません。むしろ、批判している人の方に差別意識が見られます。






双葉 「落ち」って何だよ・・・





まず、ネットに上がっている批判で、「F俗落ち」という表現が多く見られます。岡村氏が、「F俗落ちが楽しみ」と言った、というのですが、彼はそんな言葉を使っていませんよね。明らかに批判派が言い出した言葉です。

批判している人には、その発信だけ見て岡村氏の言葉だと受け取り、「そんなこと言ったの!? キモいヤツ。最低!」と思い、それに基づいて批判を拡大している人が、少なからずいるのではないかと思います。

(さらに言えば、岡村氏の発言を正確に聞いている人であっても、その批判に、この職業に対する心理的前提が「落ち」に近いことが見受けられるものがあります。)



この「落ち」に類似する表現、批判派の方によく見られます。
「女性が貧困で身を落とすことを期待するなんて最低だ」といった非難です。(この「身を落とす」とか、それに類する言い方もかなり多い)
岡村氏の発言は、誰かが経済的に逼迫するのを期待しているととれますから、そのことを批判するところまでは良識的と言えますが、
「身を落とす」という言い方は、はからずも、批判している人自身の、この職業に対する蔑視を露呈してしまっています。




”性搾取”とか”昔で言えば人身売買だ”的な、根深い社会問題と結びつけた批判も少なくないですが──


この思考にも違和感を覚えます。




確かに世界的に見れば、特に国や地域全体が差別構造にあるような旧態依然としたところでは、耳を疑う人身売買的状況がまかり通っています。日本ほか先進諸国であっても、全体ではなくても個々には、なんらかの搾取の実態が依然として残っていると思われます。



しかし、だからといって、すべての性サービスが、そういった根深く陰湿な搾取構造とセットであると決めつけるのも少々違うように思います。



たとえば(そこで働く人を)買うだの、身を売るだのといった表現がありますが・・・、
歴史的には、そういうところから発しているかもしれませんが、その職業が、社会的に認められているのであれば、そこにあるのは商取引です。そうでなければなりません。



顧客は別にその人を奴隷のように買っているのではなく、サービスを買っているわけで、当然ながら、その顧客は、そこで働く人の人権を損なうようなことまで要求することはできません。
そういうものが担保された(あるいは担保されるべき)正当な職業である、とみなしていないから、「落ち」だの「身を落とす」だのといった表現が、無意識に浮かぶのではないでしょうか。
一言で言えば、その職業を「卑しい仕事」だと思っていなければ、そんな言葉が浮かぶわけはないのです。






双葉 批判派の言葉に傷ついた人も





実際に、F俗の業務に着いている方々の意見も見てみたのですが・・・、
その業種の方の中にも、岡村氏に激しい批判を浴びせている人たちがいますが、今回の問題における岡村氏への批判として適切であるとは言えないという点では、他の批判と同様に思えました。(そもそも、上記のように、批判派の職業蔑視的な表現を、岡村氏が言ったものと誤解している可能性もあります)



中で、私の目に止まったのは、実際に岡村氏を接客したことがあるF俗業の女性の方です。
彼はお客として好印象だったと述べると同時に、逆に批判してる人たちの「F俗に落ちる」という言い方にショックを受けたというのです。落ちるという言い方が、この職業を見下しており、差別的だと感じたそうです。




当該番組のリスナーにも、岡村氏がF俗で働く人を普段からお嬢と呼び、リスペクトしていたという意見が見られます。問題の発言も含め、彼自身がこの職業を見下しているようすは、少なくとも言葉の中には特に見られません。



こういうことを書くと、「いや岡村氏の普段の言動からは、女性を見下す面も見られるらしいじゃないか」、とか、「女性といい関係を作れないからいまだに結婚できないんでしょ」とかいう人も出てきそうです。(実際にそういう書き込みがあります)



しかしここですべきことは彼の人格を掘り下げることではありません。
それどころか、ここで彼の人格に深く分け入って、ネガティブな面を見つけ出そうとする態度の方が問題です。



いやいや、掘り下げるわけじゃないけど、現に美人さんが入ってくるのを楽しみにする的な、女性を見た目で選別する発言してるじゃないか、とかいう人もいそうですが・・・ここでそこにフォーカスするのも、論旨がずれているように思います。




ことわっておきますと、私はこうした性差別、年齢差別も含め、差別には普段から敏感で、男性がほとんど意識せずに発する言葉の中に潜む差別意識も、見透かしてしまう人間です。別に寛容なわけではありません。




女性を見た目で選別する男性は、極めて非常におびただしく存在しています。つまり見方を変えるなら、岡村氏はむしろその点では一般的な、多くの男性に共通する女性観の持ち主と言えます。批判するならそれらの男性すべてを批判すべきと言えましょう。
そもそも発言からは、彼が見た目のきれいな女性が好きだということはわかりますが、それ以上の差別意識があるかどうかまで、掘り下げることもないと思います。






双葉 果ては人格攻撃まで・・





また、批判の中に「だから結婚できないんだ」という発言も目につきますが、これもある意味問題発言であり、そもそも結婚できるかどうかと、今回の問題とは関係がありません。またF俗を利用しているかどうかとも関係なさそうです。



彼はシャイな性格で、女性と付き合うのが苦手な方のようです。結婚していないのも、そのあたりが起因してるのかもしれませんが・・・

そもそも、女性との関係をうまく形成できている人だけが結婚できるのでしょうか?




「だから結婚できない」というセリフは、明らかに、彼の人格に問題があるかのような発言ですが、では逆に、結婚している人は人格に問題がない人で、女性との関係もうまく形成している人なのでしょうか?


今まで色々な人を見てきましたが、どうもそうは思えません。
自分本位で、かつ女性を見下している人でも、結婚している人も大勢います。


ハラスメント的なことを平然と言うなど、人格を疑いたくなる既婚男性もいれば、優しいが女性との付き合いは苦手そうな独身男性もいます。
もちろん、結婚してないから性格がいいというわけでもありません。独身男性にも不愉快な人物はいます。
要するに既婚・未婚と人格の好悪とは関係がありません。





また、F俗に通っていないのであれば、女性を見下していない、とも限りません。
たまたま女性から見て非常に魅力的で常にモテモテなので、F俗をあえて利用する必要がないというだけで、人格に問題があったり、差別意識を持っている人もいるかもしれません。
もちろんF俗を利用している人の中にも蔑視している人はいるかもしれません。
つまり差別意識があるかどうかと、利用しているかどうかとに、明確な相関性はありません。





ここで押さえておきたいのは、草食系男子が増えている時代と言われても、多くの男性は、自分のライフスタイルの中で、最低でも肉体的な意味で相手を必要とする、ということです。少なくとも、社会的なものも含め、種々の状況から見てそうであると思われます。




ちなみにですが、スピリチュアリストは、そうした欲求から卒業している男性もおられるかもしれません。わかりやすいところを言えば空海大師とかですかね。

男女問わず、真のスピリチュアリストが、異性への肉体的欲求から「ただ乖離していく 。禁欲というのでもなく、年齢的な衰えでもなく、ただ解き放たれていく」のは、一般に「悟り」と呼ばれる精神状態と相関しています。
女性の場合、肉体的欲求から解放されるのは、男性よりかは容易な場合が多いでしょう。しかし寂しさから相手を求める気持ちはあるかもしれません。それも同様に、真の悟りとともに消えていきます。

そのような欲求はないが、自然に出会ったり、誰かと惹かれあったりすることはあるかもしれません。ただ、欲望としては消えてゆくのです。






話がそれましたが、多くの平均的な男性が、そういう欲求を持っていると思われます。



この場合、公私ともに関係を築かなければならないと、決まっているわけでもありません。
また、そうだとしても、それが容易に可能であるか、そうでないかが、人格の良し悪しの基準となるわけでもありません。


たとえば結婚するのであれば、本来なら相手と対等に尊重しあえる関係を構築する必要がありますが・・・そういう方ばかりではないようです。
結婚しているからといって、高圧的・差別的に相手に接するのであれば、その人は女性と健全な関係を築けているとは言えません。


にもかかわらず、世間では相変わらず、「結婚しているかどうか」が、女性との健全な関係を築ける大人の男性かどうかを測る、基準として見られることがしばしばです。(女性の場合も同様ですが)



それが前述の、「だから結婚できないんだ」という、人格否定ともとれる言い方に繋がっています。これは、「F俗落ち」という言い方とも通底する発想ともとれます。何かの立場にある人を、その立場だからという理由で見下しています。




このように、批判派の人の発言には、職業蔑視や人格攻撃など、問題発言と思われるものが少なからず見られます。
岡村氏を非難するなら、これらの発言も問題ありとして非難されるべきでしょう。




彼の根底にある差別意識を云々するなら、彼の発言を脳内変換して「F俗に落ちる」という表現にしてしまったのも、差別意識が根底にあればこそのことです。

さらに言えば、「落ち」という言葉を使っていなくても、明らかにその職業=性搾取の温床という前提で批判を展開しているものも見られます。





しかし、そのような問題のある批判をしている人も、おそらく普通に接しているぶんには、平均的な’いい人’や’常識人’が大半ではないでしょうか。
であれば尚のこと、岡村氏発言の根底には差別意識があるだの、人格に問題があるだのと、心理の奥深くまで掘り下げて批判するのも、おかしな話です。






双葉 そもそもビジネスである





さて、これまで述べてきたように、男性は、女性と関係を築いているいないに関わらず、肉体的に必要性があるなどの事情から、それに応える業種が産業として成立しています。少なくとも、同様の業種が男性向けはあっても女性向けはほぼ見られないことを見ても、やはり男性側に強いニーズがあると言えます。




実は私は今回、認識をあらたにしたのですが・・、


ここまで見てきたように、性搾取という表現といい、昔の人身売買と結び付けられたりすることといい、産業といっても、古くは女性に対する虐待的な行為として、広く流布していたと言えます。
また、今現在も、現実にその意味で不遇な立場にある女性は、世界的にも少なくありません。


私もその観念があり、落ちるという考えこそないものの、こうした分野で働くのは、誰かの強制でなければ何かのっぴきならない状況、つまり経済的に逼迫でもしない限り、することはないのではないか、と思っていました。


性的な関係というのは非常に個人的なもので、人それぞれの好みに深く関係するので、同じサービス業でも、店員や看護師、医師などの業種とは違うように思えていたのです。
つまり好きでもないタイプの人と性的に関わり、しかも、対等ではなく一方的にサービスするというのは、かなりキツい仕事で、よほどの事情がない限り、やりたい人などいないだろう、と思っていたのでした。




ところが今回、そうでもないのだという認識を持ちました。借金苦や貧困でやっている人もいるが、その仕事を自発的に選んで、自分の仕事としてプライドを持ってやっている人も、一定数いるらしいと知りました。これは上記の岡村さん擁護のF俗嬢だけでなく、彼を批判しているF俗業の方々の意見も読んで知ったのです。なるほどと目からウロコでした。



高収入であることや、顧客である男性にとって不可欠なサービスを提供していることに自負を持って働いている人たちもいるのですね。・・・考えたら、いてもおかしくないですね。



「いやいや、プライドなんて敢えて言うところが、プライドが否定される仕事をしている証拠なんだよ」などの意見も目にしましたが、それはこの仕事を見下す人が多いため、プライドを標榜せざるを得ないということであって、「プライドなど持てない仕事だからプライドプライド言う」という思考こそが、そもそも職業差別とも言えます。





「このような仕事があるということが健全ではない。なくなるべきだ」とか「女性の賃金が低いから、この仕事くらいしか高収入がないのが問題」とかいう意見もありますが・・



たとえば私は個人的には哺乳類・鳥類の肉食業はなくなってほしいと思っていますが・・・ペットが虐待されると大きな批判が起きるのに、牛や豚や鳥は屠殺して食べても虐待とは言われない。

しばしばエクスキューズとして言われるのが「食べるためなんだから許されるでしょう」ということば。
私は自分がもし誰かに食べるために殺されるとしたら、「そっかぁ。食べるためか。なら仕方ないよね」なんて思えない。つまり食べる側が自分に許可を与えているにすぎない。

「生きるためには仕方ない」というかもしれないが、肉を食べずに生きている人は沢山おり、むしろ「肉が好きで欲求を抑えきれないから」と言ってくれたほうがまだしもすっきりする。

しかし、菜食の人であっても生命体を食べていることには違いない・・。





ちなみにナザレのイエス師やサイババ師は、ほとんど食事をしなかったというが、それは光から直接エネルギーを得ているからです。当面のところ、一般の地球人は、そんなことが可能になるまでに進化してはいないのです。


現時点の肉体世界で、どこまでを許し、どこまでを許さないかは、人間の精神的な進化のレベルによるわけなので、現時点での状況で容認するかしないかだと思います。


また女性の賃金が低いことと、この業種が高収入であることはあまり関係がないと思います。
女性の平均賃金が男性並みに上がったとしても、この仕事の賃金は、高くて当然だと思えるからです。
仮に好きでやるとしても、仕事としてかなり負荷のある仕事ですし、今回の事態に限らず、顧客に感染症があるなどのリスクもあります。それに見合う収入であるべきと言えるでしょう。



つまり、もともとの歴史をたどると、女性に対する虐待や差別から生じてきた仕事だけに、現代社会でも、どんな状況でも搾取と取られがちだが、あえて選択してやっている人にとっては、搾取でも人身売買でもなく、高収入ビジネスとして捉えているのでは、ということです。





そもそも、その職業の是非が問題だからといって、否定派が、現にその職業に就いている人やその職業を「卑しい」と思っていいことにはならない。






双葉 どのような観念を持っているかで、同じものでも違う捉えかたをされる





歴史といえば、医師や看護師も、病気の人に触れるということで、昔は卑しい仕事だと見られていたそうです。時代によって見方が変わるのですね。



今回のコロナ禍の中で、医療従事者も差別されています。まさに「病気の人に触れる」ことによる差別ですね。
でも、卑しい仕事とは思われていないし、彼らが「誇りを持って仕事をしている」と言ったとき、敬意を表す人はいても、見下す人はいないでしょう。「いやいや、わざわざ言うところが、誇りを持てない仕事をしているからさ」なんて言う人はまずいません。






岡村氏の口調からは、リスナーが言うようにこの仕事を彼なりにリスペクトしており、
他の、キツイけど高収入な仕事──そういう、短期で稼げる仕事、季節労働とか言ったりするらしいですが──と同様に捉えているようにも取れるのです。

季節労働をしたからって、「身を落とした」ことにはなりませんからね。本人は問題発言とまでは思わずに言ってしまったフシも見られます。
少なくとも、その言葉遣いや口調からは、この職業に対する蔑視までは感じられないというのが私の印象です。






誰かが経済的に逼迫するのを期待していると受け取れる発言ですから、その点で批判されるだけならわかりますが、搾取だ、差別だ、番組降板しろ、果ては人格に問題がある人物は芸能界から消えてくれ的なところまで非難を広げるのは、違和感があります。





むしろ、これまで述べてきたように、世間の人々の根深いまでの職業蔑視が垣間見えたようにも思えました。



経済上の必要からF俗業に入る人がいるとしても、仕事自体が卑しい仕事なわけではありませんし、「落ちる」などという表現は、差別的と言えます。そうしますと、今回、浮き彫りになったのは、彼の発言をきっかけに、いかに多くの人が、この業種を見下しているか、ということではないか、とも思えます。



もしかしたらこれは人々の、性に対する観念と関係しているのかもしれません。性はその本質を辿っていくと高潔なまでに清らかなものですが、この三密度の肉体世界における性は、それとはかけ離れた、極めて低い観念で捉えられることが常態です。ほんのちょっと性に関係する用語を使っただけで品性の無い広告が引きよせられるのも、無関係ではないかもしれませんね。






双葉 ここから大事です





さて、ここからはスピリチュアルな考察となります。


この話の冒頭部分で、まず、この件に関して、あなたがどのように思うか、あなた自身の心証を形成していただくことをお勧めしました。


あなたの心証や見解は、私の見解と一致していたでしょうか? していないでしょうか?


人にはそれぞれの考えがありますから、どれが正しいというものないでしょう。正しい、正しくないは、時代や社会の状況によっても揺れ動きます。





しかし、ここからはスピリチュアルです。スピリチュアルとは、厳密に言えば真の現実であり科学であると申してまいりました。




たとえばですが──、岡村氏を「チコちゃん」から降板させろ、という声がすごいと言います。降板させるための署名運動まで起きているようです。「私も署名しました!」なんて書き込みも見られます。


もっとすごいのは、芸能界から消えろ発言です。





たとえば、あなた自身が、彼に「チコちゃん」降りてほしいと願い、できればもう見たくないから芸能界から消えてくれ、と思ったとします。



図式的に言えば、岡村氏は被告人で、あなたが陪審員のようなものです。

なぜなら、その場合において、あなたは、彼を責め裁こうとしているからです。



私も陪審員だとしましょう。この陪審員たちは、つまり「世間の人々」で、私もあなたも世間の人々です。

で、この件の陪審員という立場にあって、彼になんの罪があって、どういう裁定をしたらいいか、どんな罪があって、どんな刑罰を課したらいいか、検討してみるとします。


※もちろん、物質世界的には、法的に権限のある人以外が、ある人を裁くことは禁じられています。これは思考実験です。







陪審員としての私は、彼の罪は、「誰かが貧しくなるのを期待するようなことを言ったこと」と考えます。


ですから、彼に対する刑罰をもし私が課すとしたら、誰かに、彼が貧しくなればいいのに、と言ってもらう、ということになるでしょうか。


つまりその意味では、彼はすでに十分に刑罰を受けています。私の裁定では、彼は受刑を終え釈放、といったところです。




あなたも私と同様かもしれませんが、仮の話として、「チコちゃん」降板を望み、署名をしたとします。


すると、どういうことが起きるでしょう。彼は「誰かが〜になればいい」と言っただけだが、あなたは、彼が仕事を失えばいいと思い、さらにそれを実現させるための行為をしたわけです。


するとあなたは、「〜なればいい」ではなく、「〜なるように」実効性を伴うような行動をしたことになります。あなたは彼の刑の執行に、サインをしたわけなのです。




スピリチュアルとは、厳格な科学の法則に基づいておりますので、「良い・悪い」ではありません。


あなたの道徳では彼は許されず、番組降板は当然の報いだ、と思ったとしても、
それもまた、良い悪いではありません。あなたはそう思った、という事実があるだけです。






彼の行為は「言った」ことだが、あなたは言うだけでなく実行した、ということです。


さて、言っただけよりも、行なった方が、行為としては大きいわけですから、

あなたは、今すぐでなくても、いつか必ず「言っただけなのに、それ以上の報いを受けた」という事態に遭遇することになります。





これは、いつも申しております、「カルマバランス」の法則であって、法則という以上のものではなく、あなたが罰を受けるわけではないのです。ただそうなる、シンプルにそうなるのです。




「それなら、岡村さんももしかしたら、前世や今生の過去で、同様のことがあったのでは?」といった疑問が浮かぶかもしれませんが、
そうだとしても関係ありません。あなたがしたとこがあなたに返るという法則の話です。






双葉 さらに大事なことは、アセンションを目指すあなたには、内省の必要があるということ





以前から当ブログでは、アセンションにおける重要な要素として、大きく2つ掲げております。



一つは、あなた自身の波動を上げること

もう一つは、ネガティブを手放すこと



この2つは車の両輪のようなもので、どちらも同じくらい重要です。






今回は、2つめの、ネガティブの手放しの話なのです。
ネガティブの手放しは非常に厄介で、ことに心の奥底、潜在意識に蓄積されているものまで、いぶり出さなければならないという話もしましたね。






どんなに心の奥に仕舞い込んでいても、アセンションの過程では、全て手放さなければならないということ、

もし手放さないまま波動上昇していくと、上昇すればするほどそれが吹き出してきて、非常な苦痛を覚え、ときには上昇の途中で耐えきれずに降りてしまうこともあり得ること、

それがために、アセンションできないこともあるし、できるとしても、低いレベルのアセンションでにとどまってしまう可能性があること、

これらは認識すべき重要事項と言えます。







そうしたわけで、自分の内部のネガティブをいぶり出し、完全ではないにせよ、可能な限り、今のうちに手放してしまうことは、極めて重要です。
そのために必要なのが、内省であり、以前のレクチャーで、二大ネガティブとも言える、シャーデンフロイデとルサンチマンについて解説いたしました。



人々が、誰かを責め裁くという心理は、この二大ネガティブとも関係しています。


ある人が、ある人を罪悪視するという心理には、
単純な正義感では片付けられないものが潜んでいることがあります。




これは言ってみれば、暗黒波動の実に巧妙な攻撃なのです。

暗黒波動の攻撃の中で、最も厄介なもの、それは、その人を内部から突き崩しにかかる、心理攻撃だということも、以前解説しましたね。

私自身はこれを、「罪悪感の転嫁」と呼んでいます。これも、一種のカルマ寄越し、あるいはネガティブ寄越しです。これについては、また項をあらためて解説してみたいと思います。







ある人が、ある人を責め裁こうとするとき、
それが、良識に基づいた客観的な批判である場合と、
劣等感や嫉妬、そして偏見などといった、理性を欠いた心理に基づく批判である場合があります。



後者のような感情的でネガティブな批判者は、自分の批判に対して、誰かに理性的な批判や指摘をされると、話の本筋から逸脱した人格攻撃を始めるなどの、非論理的な反応をする、という特徴が見られます。
こうした反応は理性的とは言えないもので、つまり正当な反論ではなく、「正当化」と呼ばれる反応と言えます。





ここで大切な点は、そういう人がどうこうということではなく、’あなたが’、スムーズで高度なアセンションをするために、どうあるべきか、ということです。

つまり、仮にあなたが、誰かに対して、非論理的な批判をしてしまったとしても、

肝心なのは、そのあとのことです。






双葉 内省力が道筋を決定づける





これについて、ある人が、非常に鋭い見識を述べていたことがあります。


もう随分前の話ですが、ある教養番組で、キリスト教の修道士の方が、聖書について解説していました。説教と呼ぶのでしょうか。

聖書で有名なある場面の話です。


この話は、見聞きする人によって伝えられ方が違うのでしょうし、また、私が何年も前に見た番組の、記憶の限りですので、詳細は不正確ですが、キモとしては以下のようなことです。




ある罪人に対して人々が石打ちをしようとするのを、イエス師がどう言うか意見を求めて来たという話です。


イエス師は何か忙しく書き物をしており、そこに入ってきた、彼に反発している人達が、罪を犯した女がいるので石を投げるが、どう思うかを聞いてきた。

イエスは忙しそうにしながら、「あなたがたの中で、罪を犯したことがない人が投げればいい」という意味のことを答えた。

すると、彼のもとに詰め寄ってきた人々は、一人、また一人と、その場を去っていった。


と、いった話です。





その修道士は、これに解説を加えるのですが、これが大変に鋭く、印象に残っているのです。



彼女によると、この話が素晴らしいのは、まず、イエス師は非常に賢い受け答えをしていることである。
イエス師は罪を犯した人に「石を投げてはいけない」とは言っていない。「石を投げていい」と言っている。ただし、「罪を犯したことがないなら」と。非常に利口な答えで、戒律にも法律にも違反しないようです。



ここまではどの修道士もする話でしょうけど、もうひとつ、彼女が感嘆したのは、「イエス師のことばに、ひとり、またひとりと、その場を去っていった」という点だというのです。

ユダヤの人というのは、なんと素晴らしく英知に富んでいるのだろうと思った、というのです。




それを聞いて、私もなるほどと思ったのです。この修道士の方は、宗教指導者としても一流の方だなあと思ったものでした。






彼女は当時のユダヤ人の内省の力を讃えているのです。


人間というのは、文明だけでなく、その心理や良識といったものも、時代とともに進化してきています。

イエス師の時代に、「罪を犯したことがなければ」と言われて、自分の中で、自分もまた何らかの罪を犯している人間ではないか、と、思い当たるということは、自らをかえりみるという内省の力に他なりません。しかも相手は敵視しているイエス師です。

感情的な人なら、彼の言葉に屈服することなく、自らを正当化しようと躍起になったかもしれません。





相手を論破できるだけが理論派なのではありません。相手が論理的に応酬してきて、それに対しグウの音も出ないときに、「グウの音も出ません」と認めること、それもまた理論派の証左です。

しかもこの場合は内省という、自分自身にとって痛いこともしなければなりません。確かにこの話は、イエス師の英知も語っているが、ユダヤ人の英知も同時に語っている逸話と言えそうです。





それにしても、ユダヤの人も素晴らしいが、そこに着目するこの修道士の方も実に深く鋭い洞察力の持ち主だと思いました。
この話は色々なところで見聞きする有名な逸話ですが、イエス師の機知に富んだ受け答えを賞賛する人はいても、それを聞いて内省する側を賞賛する人を、私はこの人以外では見たことがありません。






双葉 つまりこれもまた、内省の力を増すチャンスである





光の皆様、今、この重要な、あなたの命運が分かれる局面で、これらの話は、ぜひ参考にしていただきき、内省力を高めていただきたい話です。



冒頭の話に戻りますと、あなた自身は批判派で、岡村さんを責め裁きたい気持ちだったとしても、


それが私の見解を聞いても覆らなかったとしても、


ぜひ、「石を投げるなら」という逸話を思い出して、あなたの中の、誰かを責め裁くという気持ちを、手放していっていただきたいと思っています。







それは、あなたの命運に、全く関係がないことはなく、そればかりか、あなたの命運を左右するからなのです。

今回の岡村さんの件だけに限りません。

それが、あなたにとって、深く関わりのあることだけでなく、全くの他人事だとしても、

それらが、過去世も含め、積もり積もって、あなたの心の歴史の中にネガティブとなって蓄積しているのです。







ですから、あなたが、人生の折り折りで、自分の中に蓄積するネガティブを意識したときは、それらを手放すチャンスとも言えるのです。



どんなに小さなことでも、あなたの中で、人を責め裁くような気持ちが生じたときには、


そこで内省の力を働かせ、


あなたの中で、その相手に対する刑執行にサインするのをやめ、


責め裁いている自分というものを認識し、その気持ちを手放してみてください。






そのたびごとに、あなたからネガティブは消え、あなたのアセンションは、より高度を増していくのですから。










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