内省の力を高める

森




  
    
      

地球さん

 内省の力が潜在意識を変え、あなたの人生を変え、世界を変える
    

   



光の皆様、いかがお過ごしですか?



11月11日のタイムゲート開放はいかがでしたか?

素晴らしく気持ちの良かった方から、波動の寄せ返しの厳しい方まで色々ではないかと思います。一度に湧き上がるカルマ波動が大量になってきているので・・守備範囲が広いワンダラー諸氏は大変かもしれませんが・・その分、波動を上げてもいると思います。




皆様の中には、このタイムゲートにおいて、数年前ほどの意気込みは無い方もいるかもですが・・、

11月のゲート開放は毎回素晴らしいもので、殆どはシフトを伴います。

恩寵を受け止められる方にとっては今回も跳躍的なシフトがあったはずです。シフトというその幅も大きくなっていて、光を享受している方ほど、上昇勾配が急激になっていきます。


皆様まだ実感としてあまりお気づきでないかもですが、これでも3~4年前では考えられないくらい波動は上がっています。


だからって、誰しもがそれに乗れると決まってるわけでもないのです。


波動が上がってるのに、なぜ世界は平和にならないのか、なぜアセンション・タイムラインは相変わらずきわどいのか、という答えはそこにあります。世界の大半の人、一人一人の意識がついていってないのです。


ネットの情報を見ると、アセンションというものに注目する人は増えてると思えるのに、浅薄な情報に踊らされて(そもそも発信してる人もあんまり分かってなくて)、本格的に目覚めてくれる人は少ないようです。

アセンションという概念は認識しながら、テキトーな情報を流している人達は、アセンションを本心から信じていないか、理解していないかでしょう。その人達がアセンション・タイムラインに乗っているかは本当に私には分かりません。分かるのは、良心的なサイトはごく少ないのに、それが検索上位に上がるのを阻害してしまっているので迷惑ということだけです。



そんな状況のなか、少人数のサポーターでアセンションタイムラインを維持してる感じですね。


アセンションの中でも高位のアセンション組が少ないのも一因でしょう。高位アセンション組を一人でも増やしたいところです。






双葉 世界平和実現の最終攻略領域は、あなた個人の幸福の最終攻略領域でもある





ここのところ、世界情勢とか戦争とか、そんなグローバルな危機の話をしていますが・・、
世界が不穏な状況から解放され、平和へと向かうには、二つの方法しかないでしょう。


一つは世界の人の大半が「世界平和の祈り」を祈る、そんな世界になることです。しかし今の状況を見る限り、これは不可能に近いようです。

もう一つが、いまだ少数ではあるが強力な光の皆様が、高位アセンションに乗り換えることです。



ちなみに、NPO的な平和活動は無駄ではありませんが、そういう活動が功を奏するには、世界が相応の波動レベルにあることが必須の前提であり、「平和活動が広がる」こと自体それ自体が、世界の波動上昇の現れとも言えます。




つまり今の波動情勢にあっては、高位のアセンションはもはや個人の幸せのためだけではなくなりました。



そのためには潜在意識の攻略が必要です。


個人個人の“想い”が世界を描いている──だから世界を平和にしたかったら、自分の潜在意識を攻略する──


たゆみなく祈りやマントラで波動を上げてきた人の最終ステージ、もはやこれなしで、個人の幸福も世界の平和もあり得ない、最終攻略領域が、あなたの心にあるのです。



「頭上の壁を突破する」「潜在意識を攻略する」
これは、ただでさえ少数派のアセンション組の中でも、ほとんどの人がいまだに成し遂げていないことです。


常々話題にしている祈りの会でも、成し遂げてる会員さん、成し遂げそうな会員さんを見かけません。


この会は(少なくとも現会長が現役でいる間は)、世界屈指の高度な指導法を提供してくれていますが、それをもってしてもいまだここを攻略する指導法が見出せていないわけですね。(これは前に述べたように会員さんが必ずしも完璧に会の指導を理解してないせいもあるのでしょうが・・)


でもだからこそ、一定以上の光の人が、それを成し遂げたときのパワーは絶大だと思われます。


当ブログでの指導法は、そんなわけで、かなりユニークになってきているのですが・・、読者の方だけでも、高度なアセンション・タイムラインに乗り変えていただきたいと思っております。


今回の記事は、文献など調べていたのでUPまで少し日が空きましたが、そのぶん、二回分くらいのボリュームがあるかと思います。平明になるよう努めていますが、一気に読みきる必要もないので、じっくりお読みください。






双葉 己を知るということ





今回は、前回予告しましたように、内省というものについて書いてゆきたいと思います。


尚、前回までの記事も、既読でなければ読んでください。潜在意識の記事はもちろん、直近の性差についての記事も、お読みでなければお読みください。


それらは徐々にあなたの潜在意識に光のメスを入れるためのツールです。


ただ読むだけでなく、理解して心に沁み渡らせることをお勧めします。記事がツールとして機能するかどうかは、あなた次第だからです。


かのルドルフ・シュタイナー博士の著書にも書いてあります。“この書は読まれるのではなく、読み解かれることを待っている”と。


霊性の開発においては、それは必須のことです。



ときにシュタイナー博士といえば神智学や神秘学のオーソリティとしてつとに知られていますが、実は私自身は彼の著書を読んだのはつい最近のことです。


感銘を受けたのは、彼の謙虚さ(卑下ではない真の謙虚さ。卑下は高慢の裏返しですから)、己を知り、人を知る洞察の深さです。この、知性の出発点とさえ言える謙虚さや、自己を客観視する内省の力を持った、真のインテリに出会うことは、近年はほとんどありません。


ですが「己を知る」、つまり自己の状態を客観的に認識する、ということが、スピリチュアル的な進歩でいかに重要かについて、考察してみたいと思います。






双葉 理解の深度を知ること





私の記事の内容を浅薄にしか理解できない人は(そもそも読むのをやめてしまっているかもですが)、ことによると私が似たような話を繰り返していると思っているかもしれません。


流し読みをして「まあまあ、こういうことね、似たようなこと前にも書いてたじゃん、ハイ分かった分かった」で済ませ、「それにしても同じ話をグルグルするなあ」と思ったりもするかもしれません。


そう推測するのは、スピリチュアル的な進歩の過程では、新たな段階に昇れない人が、しばしばそのように感じることがあるからです。実は「同じ話をグルグルしている」のではなく、その人の方が「同じところでグルグル回っている」のです。

頭上には突破しなければならない壁があります。それを攻略しあぐねて、ただグルグル回っているのは、その人自身なのです。



なぜそうなるかと言うと、物質世界の山やビルに登るのと違って目に見えないため、自分が障壁に突き当たっていることに気づかないからですね。



イベントを理解しない人ほど、イベントをイライラしながら待っているのと似ています。



ですからまず、気づくということが大事です。



そのための必須のメソッド、それが「内省」です。己を知るということです。






双葉 何年も前と「変わらないなあ」と言う人





今回もまた、A氏を例に挙げてみましょう。


一応断っておきますと、前にも書きましたように真面目で熱心な祈り人で、スピリチュアル情報にも通じていて、祈りの会の中でも波動の高い人です。もし問題があるとしてもこの方だけにあるわけではないです。


霊性開発がある程度以上の段階にあるスピリチュアリストだからこそ鮮明になってくるネガティブがあります。しばしば厄介なハードルとなり得るものを、例として挙げて説明を試みたいと思っているわけです。


それともう一つには、ご本人は自覚があるか分かりませんが、私へのカルマ寄越しがかなり酷く、依存を増大させているようです。常態的なカルマ寄越しになると、距離・場所・時間を問いません。S・T氏とともに懸案事項になりつつあります。


それにしても波動が一定以上に高い人に限って深刻なカルマ寄越しを常態的にしてくるケースがありますね・・。さらにもう少し波動が高くなればそんなこともないのでしょうが・・。
この記事をUPするのも逆効果かもしれず、ヒヤヒヤですが・・事態の打開もしたいので、試みてみます。(寄越しが酷くなるようなら内容を再検討しますが)




ただ、このテーマ自体は、私の個人的な事情とは別の話で、一度は考察して、皆様に認識を促したく思っていた話です。





先日、祈りの会の地元の寄合いに新しい人が来ました。新しい人といっても、元々は私より古参の会員さんで、しばらく会から離れていたそうです。


で、A氏や他の会員さんが、今の会のことについて色々説明していたら、「そんな変わってないんだな」というつぶやきを漏らすのが聞こえました。



その人が何年前に会にいたか知らないですけど、私が入会した頃より前なら、相当前だと思います。でも変わりなく見えるらしい。



そう言えば、A氏もよく、五井尊師や現会長が「ン十年も前から同じような事を言っている」とか、現会長の話は「いつもと同じような話で・・・」的なことを、毎回のように言うのを思い出しました。


つまりA氏も、「あいも変わらず」と思っているようです。「世界が変わるという話は何年も前からしているのに、あいも変わらない」と・・。ちょっと似ていますね。



ところでこの再入会した会員さんですが、寄合いが終わったあと、ちょっと話をする機会がありました。感じの良い方で霊性も高そうなのですが、しばらく話していたら、ウン? と思うほど波動が下がってきました。


これは、何も祈っていない一般的な人達と話しているとよく起きる現象です。


その方が祈りの会から離れている間、何をなさってたかは分からないですが、古参の会員さんでは見られないほどの一般人的な波動域・・。


つまりこの祈りの会が、何も変わらないということはないわけなのですね。一見、同じことを繰り返しているだけに見えますが、かくも違うかと思うほど差が生じることもあるのだな…と実感しました。




さて…、そんな「変わらない」とぼやき?ながらも、他の会員さんたちと共に波動を上げているA氏ですが・・、


私が、「この人はこのままでは頭上の壁を突破することはないだろう」と思う点があります。


それが「シャーデンフロイデ」です。






双葉 シャーロンフロイデ。それは内省を必要とする、ぜひとも越えなければならない心理的な障壁





もう随分と前の話ですが、祈りの会の行事で、現会長に食ってかかった方がいます。


参加者全員で輪を作って長時間祈りや印をしないといけない、ちょっときつい行事だったため、初めに「無理そうな方には輪から出てもらう」と説明があったのですが、ご本人はよもや自分が追い出されるとは思ってなかったご様子。恐らく熱心に祈っていたのに、スタッフが辛そうだと判断して輪からはずれてもらったのですが納得がいかず、怒りに変わったのではないかと推察します。


スタッフに押しとどめられ、現会長にも被害はなく事なきを得たのですが、この時のことは私の周りの会員さんたちの間でもしばらく語り草になっていました。何しろ滅多に見ないことでしたから。


その方がその後どうされたかは分からないですが、その時はカッとなったとしても、冷静になってみると感情に走りすぎたと思ったかもしれません。


やがて会員さんたちもそんな些細な事件は忘れていきました。



私にとってこれが印象に残っているのは、A氏がこのエピソードを何度となく話題に出したためです。


私の知る限りでも4、5回は聞いてるかなあ、と思います。「あの時は驚いた」と言うし、私もそれは同感だったので、そのたびに同調していたんですが、そのうち、A氏が何度もその話を繰り返し話すのは、その会員さんにある種の優越感を抱いているからではないかと気づきました。少なくとも話すのが彼にとって楽しいことなのは間違いなさそうでした。



彼はまた、別の会員さんが、行事の場所取りで怒っていた話もしばしば話題にしました。何でも先に来た会員さんが、あとから来た人が陣取った場所のお蔭で前が見えなくなったと、ひどく怒っていたというのです。(行事は屋外で、会員さんは好きなところにシートなど敷いて座る)


その会員さんも子供っぽいとは思うんですが、A氏が同じ話を何度もする方が私には印象が強かったのです。口では「びっくりした」と言うんですが、私の見るところでは、やはり面白がっているというか、優越感を抱いているように見えるのです。



こんな事もありました。行事の帰りに入った食堂で、隣のテーブルの人が写真愛好家らしく、カメラ談義をしているのを耳にしたのです。いかにも素人カメラマンの人が得意げに撮影のうんちくを語る様子は、私も聞いていましたが、確かにちょっと子供じみて見えました。

A氏はこの素人ぶりがよほど可笑しかったらしく、そのあと何度も話題にするのです。一時は会うたびに話題にしていました。これについてはいたって分かり易く、完全に見下した口調で、しかも楽しそうに話すのです。


これらの話は、何年かに渡って彼が同じ話を繰り返したものです。



確かにどの人の例も、あまり恰好のいい話ではないし、大人が子供じみた態度をとってしまった、ある意味失態といっていい話です。ことに先の二人は同じ祈りの会の会員です。霊性開発の徒ともあろうものが・・という思いがあるのかもしれません。(察するに霊性開発に真剣なあまり、神経質になって大人げない言動をしてしまった可能性はあります。)




しかしそんな些細なことをいつまでも覚えていて、何度も何度も反芻するA氏は、どう見ても、他人の失態とかカッコ悪い様子に、ある種の心地よさを抱いているように思えるのです。


別に認知症でもない人が同じ話を繰り返し話すのは(解決すべき問題だとか、何か不満があって愚痴を言わずにいられないとかでなければ)、その話をすることが楽しいからです。脳が快感を覚えるので反芻するのです。



A氏はまた、自分よりも恐らく霊性開発的に遅れている、初歩的な過程にある人達の話も好きらしく、ひところはよくしていました。


私が、その人達にはその人達の道筋があるのに、なぜそんな話ばかりするのか、と言ったら、その人達のためだとかいった、何やらもっともらしい理由を述べていましたが・・私にはどうもその初歩的な人達に優越意識を抱いているように見えてなりませんでした。



というのも、一方で、エセなスピリチュアリストが発信するいい加減な話には心あるスピリチュアリストが迷惑しているという話もして、これは私とも意見が一致するところです。それについては困った事だというので問題視している様子がうかがえます。つまりそれぞれ心情によって話しぶりに違いがあるのが分かります。




私の印象では彼は、総じて自分より下(と本人が思う)人達に対して優越意識を抱く傾向があるのだろう思っていましたが・・、
それに近い感情を言い表す言葉があるのを知りました。




シャーデンフロイデ。
(「恥ずべき喜び」と呼ばれる。ドイツ語でシャーデンは「害」フロイデは「喜び」。)



何やら難しそうな言葉ですが、多くの人にとって身近なものです。


ウィキによると
「シャーデンフロイデ(独: Schadenfreude)とは、自分が手を下すことなく他者が不幸、悲しみ、苦しみ、失敗に見舞われたと見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情。ドイツ語で「他人の不幸(失敗)を喜ぶ気持ち」を意味する。」
「類義語としては「隣(他人)の不幸は鴨(蜜)の味」、同義の「メシウマ(他人の不幸で飯が美味い)」という俗語が近い物として挙げられる。英語では「Roman Holiday」という表現に相当するが、これはローマ帝国時代、休日に奴隷の剣闘士を戦わせる見世物を市民たちが楽しんだことに由来するもの」




調べてみるとこの用語は、狭義にも広義にも解釈されており、その程度も、些細なものから、社会全体の世論に影響する勢力になるような大きなものまでさまざまです。(程度の差こそあれ、ネガティブのタイプとして同じなので、ここでは広義に解釈します)




その根底には何らかの劣等感や嫉妬心がある、特に嫉妬心とは表裏一体である、とされていますが、一方で、優越感について言及している向きもあります。



これをまとめた記述としては、イミダス(集英社)によると
「自己評価をするために他者と比較する「社会的比較(social comparison)」という認知的過程によって生ずる。シャーデンフロイデは、自己より劣っている他者と対比する「下方比較(downward comparison)」によって生じる。一方、「妬み(ねたみ)」は、自己より優れた他者と対比する「上方比較(upward comparison)」によって生じる。」



この、下方比較と上方比較の、上方比較(嫉妬心)については後日に譲ることにしまして、


下方比較、つまり自分より劣った(と本人が思う)存在や状況を面白がる、わらう、というのは、私がA氏の話しぶりに感じた優越感と通底しているように思います。






双葉 ネガティブと認識しにくいネガティブを知ること





お気づきの通り、この感情はA氏だけのものではなく、誰にでも生じやすい感情と言えます。


イメージしづらい方は検索してみてください。さまざまな例が挙がっています。多くは誰が何かで失敗したとかいうニュースに対し、面白がったりあざ笑ったりする感情として挙がってくるでしょう。


実際、口に出しにくい感情でも、ネットではニュースなどに対するコメントにしばしば見られます。見られますというか溢れています。特にSNSでは酷いものも多いですね。



酷いのになると、芸能人が起こした軽い不祥事でも「再起不能でしょw」とか、目を離した隙に子供が行方不明になったなどの親に「一生背負ってろ」とか、無神経なコメントがあふれかえっています。


しかし、そうした極端に程度の低いディスりや、言葉で発信するばかりがシャーデンフロイデではありません。人の失敗や不幸で抱く快感や安心感などの感情の総称なのです。




私がA氏の場合を例に出したのは、本人が自覚がない程度のものだと思われるからです。ネットにあふれている酷い例を挙げても、自分が当てはまるとは思えないでしょう。




皆様は、そんな感情は一度も抱いたことがない、と言えますか? もちろんそんな方もいらっしゃるかもしれませんが、通りすがりの出来事で抱く快感なので、誰しも抱いてしまった経験があるのでは、と思います。


かくいう私も例に漏れません。大分以前でしたが身に覚えがあります。


シャーデンフロイデという言葉まで存在するほどですから、多くの人にとって、根強くある普遍的なネガティブ感情なのでしょう。




ある日本の研究者で、このような感情は誰もが抱くもので、人が共同生活を送る上で必要な感情として発達したなんて解説を見かけたのですが・・、

少々強引というか説得力に欠ける説というか・・、今や生物科学界でも疑問が持たれているダーウィンの進化論より、根拠薄弱な気もします。

もしかしたら、ご本人がどうしてもシャーデンフロイデを抱いてしまうので、それを容認するために都合よく解釈してるのではとさえ思えます。

仮に事実だったとしても、それは非常に狭いコミュニティ、いわば村的社会でこそ容認されうるものであって、その閉塞的な社会を果てしなく続けようとする人達の発想と言えます。

しかし、誰しも抱いたことがある感情ではあっても、誰も克服できない感情なわけではありません。自分がやめられないからって、他の人も全員やめられないと思うのはそれこそ幼稚な考えです。





簡単な話なのです。


この感情はネガティブです。


ネガティブを手放さないことには、アセンションできませんから、手放す必要があります。




特にこの感情を俎上に載せるのは、当ブログで目指す頭上の壁の突破を阻害する、大きな障壁の一つと思われるからです。







人の不幸や失策を面白がる感情の問題点は、
「大抵の人にとって、それが苦痛よりも快感である」点です。


もちろんこの感情に苦痛と苦悩を感じる方はいらっしゃるでしょう。
でも、快感を抱く人が少なくないのです。


負の感情に快感を抱くほど、厄介なことはありません。まずはそれを苦痛だと感じないことには、なかなか手放そうと思えないでしょう。


だからこそ、内省の力が必要なのです。







双葉 まずはシャーデンフロイデを自覚すること。そしてそれを苦痛と感じること





私も身に覚えがあると書きました。何年も前の話ですが、あるドキュメンタリーを見ていてその感情を抱きました。正直言ってあまり好感の持てない、少々傲慢そうな感じの人が、事業を始めたものの行き詰っている様子が映し出された時でした。感じの悪い人だったので、ちょっといい気味だと思ったのです。


ただ、私の場合、A氏など他の人と違っていたのは、そんな感情が心地よかったのはほんのいっときのことで、その直後からむしろ非常な苦痛を感じ、苦悩したという点です。



なぜなら、そんな感情を抱くことが、自分の置かれた状況と関係していることに、すぐに気づいたからです。生活上も霊性開発上も大変に過酷な状況にあった頃でした。結局のところ、その感情を抱く自分にこそ問題があり、それは消さなければならないネガティブだと気づきましたが、そう思えば思うほどなかなか手放せず、苦悩したのです。





シャーデンフロイデについて考察した文献やウィキの英語版にも、自己評価の低い状況にある人ほど抱きやすく、自分の地位や財産に影響を及ぼさない事に自信を持っている人は抱きにくい、という主旨のことが書かれています。




つまり私が、自分が抱いているシャーデンフロイデに苦痛を感じたのは、それが自分の状況が閉塞感に満ちていることの表れだと、自覚していたからに他なりません。




換言するなら、シャーデンフロイデは、閉塞感と表裏一体なのです。自己を制限する想念波動なのです。






双葉 シャーデンフロイデは閉塞的状況の象徴であることを認識する





私は「A氏は高度な祈り人だが、シャーデンフロイデがある限り──何よりそれを自覚できない限り──頭上の壁を突破することは不可能か、もしくは非常に難しいだろう」と思っています。



この感情を抱いている場合、その人は必ず何らかの閉塞感をかかえています。自分自身が、何者かに押さえつけられ、越えられない状態である場合に、この感情を抱くのです。


その何者かとは、必ずしも、社会とか権力者とかいった他者とは限りません。自分が自分自身にかけている心の制限かもしれないのです。


それは、意識していても、いなくてもそうなのです。必ず何かの閉塞感がある、つまり、「想いの牢獄」に閉じ込められている、だからこそ人の失敗や不幸を見たときに、非難したり面白がったりする気持ちを抱くのです。





それは例えばこんなことです。


──あなたは高い山を登っています。


頂上にあるのは、あなたを社会の束縛や重圧から解放する真の自由、魂の充足という到達点です。


あなたはそれを目指してふうふう言いながら昇っています。思いリュックを背負っているため大変なのです。途中でちょっとした踊り場のような岩棚に辿り着きますが、頂上はまだまだ先です。


その時、眼下に同じように昇っている人達を見ます。自分が昇ってきたところを後から苦労して昇る人を見て、あなたはしばし先の苦労も忘れてホッとします。上を見るのではなく、下を見ることで優越感を覚えるのです。



その一方で、あなたより先を昇っている人を見ます。あなたはその人を見上げてちょっと口惜しい気持ちになります。何だかその人が得意げにも見えます。


その時その人が足を踏み外すか何かで、あなたより下まで滑り落ちてしまいました。それを見てあなたは嬉しい気持ちになります。「ああ、気の毒に、大丈夫だろうか」などとは思いません。下の谷底まで転落したのではなく、些細な失敗であなたより下方に落ちたからです。あなたの中で、同情よりも「ざまを見ろ」という快感のほうが勝ちます。



再び昇ろうとリュックを持ち上げたとき、さっきよりも少し重くなってるように感じます。あなたは首を傾げます。──





シャーデンフロイデ。それは恥ずべき感情というだけでなく、あなたがまだ、魂のレベルでの自由・解放に到達していないことを象徴する、閉塞感の表れなのです。





ちなみにですが、これは「他山の石」とは別の話です。他山の石は、中国の故事成語で、日本で言えば「人のふり見て我がふり直せ」と似たようなものです。他人の失敗例を見て教訓としたり用心するということで、シャーデンフロイデとは違います。


ですが恐らく人の心の中では、しばしばこの両者は混じり合っているのではないでしょうか。


しかし他山の石と思えばそれでいいというものではありません。本当はシャーデンフロイデなのに、いや教訓にしてるんだ、と自分に言い訳してるのかもしれません。




もしもシャーデンフロイデだったら手放すべきネガティブですから、まずはそのことを自分が認めないことには、話になりません。



ここまで読んでも、具体例が自分と当てはまらないだけで、「自分は関係ない」と思うか。思ったとしてそれは本当なのか。このネガティブの正体を理解して、ここに挙げてある例とは違うけど、自分も思い当たると気づくか・・。自分の中の本当の感情がどうであるか、冷徹に見極める必要があります。



そして自覚できたら、手放すことです。「誰しもある感情だもん、仕方ないよ」と思ってしまっては手放せません。






双葉 そもそも驚異的な光の戦士が抱くような感情ではない





考えてみてください、光の同志がたよ。


あなたは本来、光り輝く驚異的な存在なのです。それは例え話でも抽象概念でもなく、いたってシンプルな事実なのです。


そのあなたが本来の姿に戻ったとき、このような「お寒い感情」を抱くことがあると思いますか?





物質レベルの心理学者や脳科学者は、この感情を、ある程度は人間的でやむを得ない感情と容認するかもしれませんが、


その三密度物質レベルの人達を、本来、軽く凌駕している存在、それが、光の皆様なのです。




あなたが本来の次元域に戻る時──完全に回帰するまでもなく、今よりちょっと上位に戻るだけでも──


あなたは物質レベル世界の状態から軽々と飛翔し、本来の、美しい光できらめき出すのです。


そうなった時には、他人の不幸や失敗で快感を覚えるなど、まったくありえないのです。


もし自分が、望むものが望むままに享受でき、一切の制限がない自由な状態だったら、人の不遇を面白がるわけがありません。仮に面白がるとしても、戦争を引き起こしたり、人を虐待したりする連中が失脚した時くらいでしょうが、高位の魂であれば、そんな人達の不幸ですら、面白がることはなくなります。





それは言い換えれば、シャーデンフロイデを抱いているようでは、そのような状態に回帰するなど、到底おぼつかないということです。




この感情が厄介なのは、上述のように、ネガティブでありながら快感を伴うという、非常に手放しづらい、麻薬のような感情だからです。




だからこそ手放しましょう。内省の力を発揮して。


内省し、自覚し、手放しの対象としてターゲットにましょう。



といっても、常時意識している必要まではありません。


自分がこの感情を抱くことがあったら、そのたびに順々に手放していけばいいのです。



その意味では、ネガティブを自覚するというのは悪い事ではありません。手放す対象が定まるのですから。そして手放したさいには、波動的な進歩が望めるわけですから。






双葉 麻薬の甘美さに浸っている間は、真に甘美な水は味わえない






先ほどのたとえ話、山登りに戻りましょう。


ふうふう言いながら山を昇るあなたは、やがてあることに気づきます。自分がなぜふうふう言って昇っていたのか気づいたのです。重いリュックを背負っていたんですが、その中には大事なものが入っているはずでした。


それは登山用具や登山に関する資料、食料、それから、登山の途中での楽しみだった嗜好品などです。


でも、気づいてみると要らないものが多いのでした。大事な資料とばかり思っていたら、うんちく本の方が多いことに気づきました。食料はちょっとは要るかもしれないな。でも、嗜好品の数々は要らないのではないかな。なぜって、あなたが飴玉だと思っていた嗜好品は麻薬だったからです。


なぜこれを飴玉だと思っていたのだろう? 


頂上に行けば、麻薬より甘美なものがあることを、あなたは思い出したのです。


でも考えたら、麻薬をたしなんでいては、頂上にある甘美な水は味わえないことに、ようやく気付いたのです。なぜならあなたは麻薬依存症になってしまっていて、真に甘美な味わいのものが味わえないからです。


あなたは麻薬を捨てることにしました。それは大きな決断でしたが、試しに数グラムだけ捨ててみました。


すると、ほんの数グラムだったのに、まるで数キロ捨てたように、驚くほどリュックが軽くなったのです。あなたは頂上を見上げ、気迫を取り戻して再び昇り始めました。昇りながら、麻薬を少しずつ捨てました。捨てる時は惜しいと思うのですが、でも、捨てるたびに気迫がよみがえり、あなたは昇りつづけるのでした。──





まずは自分がシャーデンフロイデを抱いているとき、自覚することが第一歩です。


それがささやかな快感となっていたとしても、手放すべきネガティブと自覚すれば、シャーデンフロイデはあなたにとって苦痛となります。苦痛と感じるまでに自覚することです。



そして、「ああ情けない。こんな、人の不幸や失敗をわらう感情を抱く私こそ憐れな存在。神よ、これが真実の私であるはずがございません。どうぞ手放させたまえ」
などと、祈ります。

「手放します、手放しました」と心の中で繰り返します。



湧き上がるたびに徐々に手放していけばいいのです。





この物質世界特有の閉塞感から生じている、根深い負の感情。それを手放すということは、すなわち閉塞感を手放すということに繋がります。




私が見るところ、この感情を強く持っている人が、それを自覚し、手放した暁には、大変に大きな波動シフトが起きる可能性が高いでしょう。





認識すべきでありながら見過ごしてしまうネガティブは他にもあります。それについては次回以降で考察してみましょう。










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