

波動上昇は格段にフェーズを上げ、世界の分離は、世界レベルと個人レベルで進行している。内省でネガティブをいぶり出し、攻略したとき、あなたの心に光が差し込んでくる
光の皆様こんにちは。新しい年をいかがお過ごしですか?
私は久しぶりにブログの更新を気にせずに過ごせるお正月となりました。
といってもやることは山積してて、時間が足りないくらいですが‥何に一番時間がかかるかと言えばもちろん祈りや瞑想です。1月のうちにブログ記事を更新するつもりでしたが、今年に入ってから波動処理が一段と手間取り、少し遅くなりました。
波動の様相自体は非常に軽くなっているのです。とはいえ気を引き締めていかなければいけないことには変わりありません。

2020年、波動上昇の潮流は、2019年とは一線を画する、際立ったものが伺えます。格段に高いフェーズに入ってきています。
上昇の勾配が高まるにつれ世界は荒れてきます。今後は、スピリチュアリストの皆さんであっても、波動状態に応じて道筋が分かれてきます。気を引き締めていかれるとよろしいかと思います。
どういうことかと言いますと、私達が最も重視しているのは世界の分離であり、アセンションする側に行くのか、しない側に留まるのかという大きな選択ですが、世界の分離を引き起こす波動の上昇は、ただ上昇していくということです。
したがってその上昇のどの道筋を取るかは、個々人の状態によるのです。「道をゆく」とか「タイムラインに乗る」というのは言葉のあやで、実際はその波動域と共振することだ、と説明しましたね。あなたが共振しているところが、あなたの行くタイムライン、道です。
アセンションは世界の分離を引き起こすけど、世界の分離が引き起こされてからそれぞれの道が分かれて行くのではなくて、アセンションが進むのと同時進行でそれぞれの道も個人個人で分かれていくということです。
アセンション、つまりこの幻想の世界から脱却して、真の現実の世界に行くということは、おのおのの周波数や波動特性に応じて、厳密に分かれた世界に行くということなのです。
なぜなら現実の世界というのは、本来そうだからです。さまざまな波動域の人たちが一同に会しているこの物質世界の方が、夢なのです。
高度なタイムラインに乗りましょう。大事なことなので繰り返しますが、あなたがこのきわどい時機に気を抜かず、アセンション・ツールの実行や手放しメソッドに励み、高い道を行くほど、その先は楽でスムーズでスピーディです。そうでない道ほど色々な点で過酷で、しかもそれが長く続く道です。
だからって恐れる必要はないですけど(もっとも恐れたら、良い機会ですので手放してしまいましょう)、気を引き締めてまいりましょうね。
私が今もっとも手こずっているのは周囲からのカルマ寄越しです。世界に沈殿していた闇波動が光の刺激を受けて湧き上がりやすくなっていて、私にとっての懸案事項である例の人はもちろん、ちょっと関わっただけとか、すれ違っただけの人からも大量のカルマが来るようになっています。波動が上がるにつれ、こういう現象は増えてきて、しかも一度に大量なので結構厄介です。それ以外にも、何が起きるかわかりません。
つまり地球さんの上昇機運はすばらしく高まっているのですが、だからこそ楽観的なことは申せません。
波動が上昇することと、個人個人の道筋の差が開くこととは相関しています。まさに、ここでどんな道をとるか、──つまりあなたがどんな波動状態であるかが、イコールどんな道をとるかということですが──が、今後を決定づけるわけなのです。
運命を分ける道、その道を今、リアルタイムで私たちは進んでいます。古来から地球に転生している人であれば気の遠くなるほど長い年月を経て、そして最近地球に転生してきた方であっても、このまたとないチャンスを得るために志願してこの場にいます。皆様がたの、地球以外も含めた長い来歴の中で、これほど得難い機会も少ないかもしれません。

当ブログの更新までだいぶ日が空きましたが、皆様どうされていたでしょうか。読み物が一つ減ったな、くらいの方もいらっしゃれば、ちょうど良い機会だと、過去記事を読み直していた方もおられると思います。熱心な方ほど、更新の間が空くのもまた好都合だと思われたと思います。ただの読み物ではなくレクチャーなのですから、レッスンしマスターしなければいけません。波動域が高い人ほど深い理解を求め、それに応じるだけのものを過去記事から汲み取っていただいていたでしょう。
私自身も自分の波動の照準や、カルマ寄越しの処理だけで手一杯なくらいです。ブログを書くのも重く感じているのですが、それは、自分自身にとっては通り過ぎた過去であるフェーズに、一旦自分を戻さなければならず、この重要で際どい時期にあってはかなりキツいことだからです。
それでも際立って世界の波動が上がってくるこのとき、最低でも伝えておきたい大事なことがまだいくつかあります。
しかしどのフェーズにある方にとっても、波動の向上とともにもう一つ重要なのはネガティブの手放しです。霊性開発の達人であっても、さらに上位のフェーズに上がるときには抵抗波動としてのネガティブを処理しなければなりませんから、自分自分が掴んでいるネガティブがまだあるようなら今のうちに手放すことが大事です。
先日、祈りの会の新年の行事で 富士に行きました。私にとっては初詣のようなものです。
今回は会長が急なミッションで来られなくなったという話で、次期会長が代理で指導に当たりました。
以前書きましたように、次期会長含む後継者の方は霊性開発の初級段階の指導者です。なので、初級レベルの人の指導や、まだ何も気づいてない人たちの啓蒙にはいいのかもしれません。そうした人たち──特にまだ目覚めてない人たちの意識をスピリチュアルに向かせてくれるなら、世界の波動の、言わば底上げになるとも言えますね。当ブログの読者様にもいらっしゃるような上級者が波動上昇を牽引するように、スピリチュアルの裾野を広げる底上げのほうも同じくらい大事と思います。(初級と言ってますが、この会自体が高度なスピリチュアル指導という中での初級ですから。そもそも巷に広まっているスピリチュアル指導の大半は、初級ですらありません)
とはいえ私ら上級組にとっては現会長が見えないのは残念です。…と思ってましたら途中で来てくださいました。
現会長は初級組から上級組まで幅広い指導者と言えます。基本的にスピリチュアル指導者が指導できるのは、自分自身の波動域およびそれ以下の指導だからです。彼女は今、世界の波動の浄化や修正で飛び回っているのですが、可能な限り来てくれるのは有り難いです。富士聖地はそれ自体が高度なパワースポットですが、彼女が現れると場の色が変わるように波動が変わります。
その現会長が、口を酸っぱくするように会員さんたちに言いましたのは、自信を持てということです。現れたものをつかむな、ということも今回は強調していました。世界の波動が、戦争想念波動が吹き荒れる中、まだ数少ない、真のスピリチュアリストの力がどれほど重要かということが、その口調に現れていました。
当ブログでも再三強調してきていることですが、皆様がネガティブから脱却して、本当の意味で自信を持つことが何より大事です。
ここで言う「自信」とは、うぬぼれや優越感ではありません。ことに「優越感」は、非常に根深いネガティブだということを忘れてはいけません。
勘違いしがちなことですが、真に自信のある人に優越感はありません。優越感とは劣等感とコインの裏表であり、今回説明する嫉妬とも深い関係があります。
もう一つ印象的だったのは、現会長が珍しく「つかむな」という指導をしたことです。これは五井尊師流の指導なのですが。つかむなとは、手放せということの別の言い方です。
もともと彼女はあまり手放しという指導をしない人です。今回改めて、それがなぜなのかも再認識しました。それは、彼女自身は手放しなどをほとんど意識せずに手放しをしてこれた人なのだろう、ということです。自分の中に、あまり根深いネガティブを蓄積していない人というのはいるのです。
それに対して五井尊師は、現れたものは現れたことで消えてゆくのだ、という指導により、悩めるスピリチュアリストを啓蒙してくれた指導者です。何かのトラブルにせよ、祈っているときに出てくる雑念にせよ、それは現れることで消えていくのだから、つかんではいけないという教えは、一見何でもないようで、それまでのスピリチュアル指導にはない画期的なものでした。
私は彼はワンダラーだと思っているのですが、ワンダラーというのは、同じスターシード系の指導者でも、パイオニアスターシードよりもずっと地球人のことをよくわかっています。多くの地球人がどこでつまずくか理解し、彼自身にとっては必要のなかった消えてゆくという心理メソッドを編み出してくれました。本来清らかであるはずの私達に、なぜこうも苦悩や、ネガティブなものがあるのかということへの答えをもたらし、罪悪感からの脱却の道を開いてくれたのです。
そして今、いよいよ際立って鋭く急激な上昇が世界のそこここで見えてきたこの時機、私達の中に「沈殿」しているネガティブの燻り出しと手放しが、ますます重要になってきます。それをすればするほど、皆様も、本来のご自分が現れてきて、自信と余裕を取り戻していくでしょう。
何より、急激な上昇が進むにつれ、手放せていないネガティブによって苦悩し、タイムラインを下げ、ときには肉体にとどまることに耐えられず、ときにはアセンションタイムラインを降りてしまうことさえあるほど、ネガティブは厄介なハードルです。
でも、厄介であるぶん、それを攻略したあかつきには、飛躍的な波動シフトが望めるメソッドでもあります。
最低でも伝えたい大事なことがまだある、と書きましたが、その前に、昨年のレクチャーに引き続き、皆様の中に潜むネガティブについての考察を書きたいと思います。

ここまでのレクチャーでは、世界がきわどい状況にある理由、そして戦争を回避し世界が平和になるためにはもはや光の皆様がたが高度なタイムラインに乗り変えるしかないこと、そのための潜在意識を攻略の重要さをあらためてご説明するとともに、「自分を知る」内省の重要さもご説明しました。
今回もその内省の続きです。前の記事をお読みでない方は、そちらからお読みください。
前回の内省では、シャーデンフロイデという聞きなれない、しかしありふれた感情についてと、それに気づき、手放すことの大切さについてご説明しました。
引き続き、今回は、シャーデンフロイデとも密接に関係する最も厄介なネガティブ「嫉妬」、そしてしばしば関連付けられる「ルサマンチン」と呼ばれる感情も含めて考察します。
これらの考察は一見哲学的ですが、哲学的あるいは社会学、または心理学的に考察しても、この概念は袋小路に入り込むだけです。
当ブログは、哲学的思考の遊びをするつもりはありません。
でも待てよ・・、「袋小路に入り込む」・・・? 達人の方は、フムフム? と、スピリチュアルな匂いを感じ取るかもしれませんね。
袋小路は、すなわち、スピリチュアル的に言えば、「想念の牢獄」です。
想念の牢獄とは、私たちを、この、閉塞感と限界に満ちた三密度物質世界に閉じ込めているものです。
と、いう事は、そこから脱却することが、すなわち頭上の壁を突破する、一大シフトとなります。だから取り上げます。
この概念は非常にマイナスでネガティブなので、読むのがユーウツ・・・なんて、思わないでくださいよ。こいつは攻略し甲斐のあるネガティブなのです。
「頭上の壁の突破」、「想念の牢獄からの解放」とは、
ある種の「脱出ゲーム」です。
ゲーム攻略の最難関ステージ・・・でも、挑戦し甲斐もありますね。
「んー、前回もだけど、心理学の講義っぽくて眠くなるよー・・・」とお思いですか?
実は、眠気こそが攻略中のサインでもあります。いやもちろん、それをクリアしている方には、当然、めっちゃ面白い攻略ゲームです。
ゲームは楽しむに限ります。では今回もはじめましょう。

まず、「嫉妬」ですが、これは前回に述べた「上方比較」に当たります。
前回記事のその部分を再掲します。
『イミダス(集英社)によると
「シャーデンフロイデは、自己より劣っている他者と対比する「下方比較(downward comparison)」によって生じる。一方、「妬み(ねたみ)」は、自己より優れた他者と対比する「上方比較(upward comparison)」によって生じる。」』
この説明では並列の扱いですが、嫉妬がシャーデンフロイデの根源になっていることもよくあります。
シャーデンフロイデの厄介な点は、それが快感であること、麻薬のように手放し難い、と、ご説明しましたが──、
それに対して、嫉妬は本人にとっても不快な感情で、是が非でも手放したいにも関わらず、これもまた手放しにくい感情と言えますね。
さらに、これらと紐付けされてでてくる概念に、「ルサンチマン」というのがあります。
ルサンチマンもまた、耳慣れない言葉だと思いますが・・・、これも覚えておくとよい概念です。
ウィキの説明では
「ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。(中略)デンマークの思想家セーレン・キェルケゴールが想定した哲学上の概念である。フリードリヒ・ニーチェの『道徳の系譜』(1887年)でこの言葉が使用(再定義)され、マックス・シェーラーの『道徳の構造におけるルサンチマン』(1912年)で再度とり上げられて、一般的に使われるようになった。」
若干分かり辛いですな。
ネットでの説明を色々見てみたのですが、それぞれ少しずつ解釈が違うので混乱します。
その中でも端的で分かり易いのを発見。ニーチェが再定義したというのがどんなのか、もう一つ引用。
知恵蔵の解説
「ニーチェのキリスト教批判における中心概念で、「恨み」や「妬み」を意味する。『道徳の系譜』(1887年)において、ニーチェは、キリスト教の起源をユダヤ人のローマ人に対するルサンチマンに求め、キリスト教の本質はルサンチマンから生まれたゆがんだ価値評価にあるとした。被支配階級であるユダヤ人は、支配階級であるローマ人の力強さ、能動的に生を楽しむこと、自己肯定的であることに対して恨みや妬みを抱き、このルサンチマンから、強い者は「悪い」、強くない私は「善い」、という屈折した価値評価を作り出した。この価値の転換はさらに屈折の度合いを深め、「貧しき者こそ幸いなり」ということばに代表されるような、弱いこと、欲望を否定すること、現実の生を楽しまないことこそ「善い」とする価値評価が生まれ、最終的にキリスト教の原罪の考え方、禁欲主義、現世否定主義につながっていった、とニーチェは考えた。」
ちょっと分かり易くなってきましたな。
要するに、ルサンチマンは弱者が強者に抱く嫉妬、嫉妬から来る恨みや憎しみの感情を言う。
それをさらに推し進めて、弱者が、貧しき者こそ幸いで、心が清い、的な観念を生み出す。この概念はキリスト教が信徒である民衆、わけても貧しき人々に、禁欲を善となし、その事に不満を抱かせずに心の安定をもたす効果はあったのでしょう。
こうした心理的な落としどころを、無神論者は「気休め」と呼ぶでしょうが・・・、
当然ながらナザレのイエス師は気休めのつもりで言っていたわけではありません。それについては順々に考察していくとして、ルサンチマンに戻りましょう。
現代でも、宗教に関わらず、この観念は、人々に日常的に見られる心理です。
たとえば天才を見た凡才は、天才に「変人」というレッテルを貼りたがります。偉大な芸術家はどこかヘンだったというエピソードは、凡才の大好物です。
貧しき人から見ると大富豪もまた変人です。お金持ちは偏屈で強欲な金の亡者で、貧乏人と違い心が汚れていると思いたがります。
また、権力者に対しても屈折した感情を抱く人は多くいます。
これらの感情の根底にあるものは何でしょう? まず言えるのは嫉妬心です。でも、それだけではないかもしれません。

ルサンチマンという概念では、
たとえば貧しい人が、「貧しいことは高潔である」「富豪は心が汚れている」と考えることとされます。
その根底にあるのは、富める者に対する憎悪であり、さらに深く分け入っていくと、嫉妬の感情があります。
ルサンチマンが、シャーデンフロイデとあわせて論じられるのは、
たとえば富豪が何かで失脚した場合に、ルサンチマンを抱いている人達が「ざまを見ろ」と溜飲を下げ、喝采を浴びせる、つまりシャーデンフロイデを抱くからです。
ルサンチマンは、確かに、貧しい人が、貧しさに耐えて頑張り続けるという点では、ある種の心の落としどころではあった、と書きました。
それがキリスト教による人心の掌握と密接に結びついていたことを、ニーチェは看破しました。
しかしニーチェ氏は、人心掌握や統治に利用されたキリスト教のことは知っていたかもしれませんが、ナザレのイエス師の教えと本質的に違うものであることは理解していなかったと思われます。
私の印象では、イエス師は、スピリチュアルなセオリーを、わりと簡明に説いている方のように思うのです。
以前当ブログで、シュタイナー博士の言葉を引用しましたね。彼は自著の霊性開発の教本を「読み解かれることを待っている」と書いています。シュタイナーの場合は、意識的に、にわかには理解しづらい、わかりづらい記述をすることで、読者に深く理解させようとしているのだ、と述べています。
でも、イエス師は、私の印象では、平明でシンプルな指導をする人のように思えるのです。
スピリチュアルな世界の認識とは、そもそもが、平明に説明するのが困難なのです。
というか、そもそもの法則やセオリーは至ってシンプルなのですが、指導される人にとってはなぜかシンプルでなくなってしまうのです。わざわざ暗示めいたことを言ったり、わかりづらくする必要がありません。聞く人達のほうで既成の観念が邪魔をして、シンプルなことをシンプルに理解できず、難しく解釈してしまいます。さもなければ例の「ハイハイわかったわかった」思考に陥ります。表面をなでただけでわかった気になってしまう心理です。
つまりイエス師自身はシンプルな事実をシンプルに解説しているのだが、そもそもが理解しがたい世界のことを説明しているため、のちの人達によって難しく解釈されてしまっているような印象を受けます。
ともあれイエス師が言うとおり、物質的な豊かさを得るのが可能である人達は、スピリチュアル的には不利かもしれません。信仰を持たなくても望みが叶うという状態は、当ブログでしばしば指摘している「上がったり下がったり」の因縁因果サイクルの「上がったほう」の状態と考えられます。そのフェーズにいるときにサイクルから自発的に脱却しようとするのは、多くの人にとって難しいのです。
イエス師と並び称されるスピリチュアル指導者、ゴータマ・シッダールタ師は、王族として贅沢な暮らしをしていた中でスピリチュアルに目覚めるのですが、そうした人は本当に稀有な存在です。
大抵の人はむしろ「下がっている」状態、つまり辛さや困難さがあるとき、その状況から脱却したいと願うものです。物質的な豊かさを持たない者であれば、より強く精神的な面を強化できるという点では有利で、霊性開発上はチャンスとも言えるのです。
ニーチェ氏による、キリスト教による人心掌握と関連付けてルサンチマン概念を再定義する考察は、なかなか慧眼だと言えるのでしょうが・・・、
物質世界以外の世界を想定できない人は、ここで行き詰まります。
それが、思考の袋小路へと迷い込ませてしまうわけです。
ちなみにですが、当ブログでは、望みの成就というのを推奨しておりますね。
それは、因縁因果サイクルの上がったり下がったりの「上がったほう」、ではないのです。上がろうが下がろうが、因縁因果のサイクルにいる限り、同じステージでぐるぐる回っていることに変わりありません。
当ブログで推奨している、高位レベルのアセンションとは、単に、アセンションの過程での、物質世界での苦痛の少なさや、豊かさだけを目指しているのではありません。
古い観念にとらわれている人は、勘違いするかもしれません。肉体世界で過酷な目に遭ったら、その分、肉体を離れたあとでは、高いところに行けると。
しかしそれは違います。
高位のアセンションとは、その、肉体世界での過酷さをすでに経た、高度なスピリチュアリストが、まだ肉体がある時点で、高位次元レベルの波動を捉えるに至る、ということなのです。
だからこそ、その後の人生はよりスムーズになり、
また、肉体を離れたあとも、ちんたらアセンション組より、さらに高度な域に回帰あるいは到達ができるのです。
そういう、次元を超えた先の道筋を睨んでいる我々にとっては、ニーチェ氏のような分析は、優れてはいますが、ある程度までしか意味を成しません。優れた分析の先にあるもの、それが重要なのです。

さて、先に書いた例の「天才と凡才」で思い浮ぶといえば、モーツァルトとサリエリを挙げる人も多いのではないでしょうか。
この二人の関係の対立構造が有名になったのは、戯曲や映画の影響らしいです。
映画「アマデウス」はアカデミー賞を総ナメにした傑作です。天才モーツァルトの才能に嫉妬した凡人サリエリが彼を死に追いやったという物語です。多分に脚色されており、事実ではないエピソードも盛り込まれていますが、とはいえ、そもそもそのような着想が得られたのは、サリエリがモーツァルトの才能に嫉妬して毒殺しようとした、という噂が実際にあったからです。
モーツァルトの地位は、宮廷でもサリエリに比して歴然と低かったので、「サリエリがモーツァルトに嫉妬するなんてあり得ない」と考える人もいます。
しかし宮廷内の地位争いともなれば、水面下の駆け引きや足の引っ張り合いも想像されます。モーツァルトの才能を脅威と見たサリエリが、高い地位を得ないように画策した、という見方もあるのです。
凡才が天才よりも華やかに活躍する、というケースは、芸術方面では枚挙にいとまがありません。その水面下では、凡才が天才に嫉妬して足を引っ張るといったこともあるでしょう。
芸術分野だけではなく、能力の高い人が、低い人に陥れられて不遇を味わうというケースは稀ではありません。
その一方で、単純に、当時の人が、天才の高い芸術性を理解できなかった、というケースもあります。
ここで嫉妬ということに目を戻しますと、そもそも、嫉妬という感情は、頭上の壁を突破する最大の障壁の一つです。
実際に奸計をめぐらしたかどうかはともかく、サリエリがモーツァルトに嫉妬していたことは十分考えられます。
その理由は「自分がモーツァルトのような天才になれないから」ですよね。もし彼が、努力すればモーツァルトになれると思っていたなら、嫉妬などするはずがありません。
ここで光の皆様に、特に注目していただきたいのは、嫉妬することが、実際に運命を害するということです。
嫉妬という感情の怖いところは、「嫉妬している限り、絶対に、嫉妬する対象にはなれない」という点にあります。
貧乏な人が、富豪に嫉妬している限り、永久に富豪になれない。
無能な人が、有能な人に嫉妬している限り、永久に有能にはなれない。
ですから、もし富豪になりかったら富豪に嫉妬してはいけないし、有能になりたかったら有能な人に嫉妬してはいけないのです。
つまり嫉妬というのは、「自分はその嫉妬する対象のようにはなれない」と、自分自身の潜在意識に刷り込むことなのです。
これが、嫉妬を通り越して、恨み、憎しみになり、さらにはルサンチマンにまで至ってしまったら尚更です。
「私は音楽の才能はありません」
「私は一生お金持ちにはなれません」
「私は無能です。ずーっと一生無能です」
と、潜在意識に、繰り返し繰り返し、スリスリと刷り込んでいるのです。
物質思考の人には、心の中で嫉妬するだけなら実害はない、としか思えないでしょうが・・、
それどころではなく、大変な実害があるわけなのです。
しかも嫉妬やルサンチマンには、さらに根深く、厄介な面もあります。

天才は確かに、優れているという面では嫉妬の対象となります。ずば抜けた才能があるのですから、嫉妬されることはあっても、することはないように見えますね。
でも、妬まれたせいで、地位が低いままで終わるとしたら、それもまた別の意味での妬みを生むかもしれません。
たとえばサリエリが不動の地位を築いたのは、音楽の才能以外の才能があったからでしょう。自分の才能を周囲に認めさせるという才能です。これについては、とび抜けた天才よりも、そこそこの才人の方がずっと有利なことも往々にしてあります。「天才は天才を知る」という言葉がありますが、それと同様に凡才は凡才と共感します。どのように振る舞い、どのようなものが相手の心を掴むかの勘どころもわかるでしょう。
その意味では、サリエリがモーツァルトに嫉妬したように、モーツァルトもサリエリに嫉妬していたという可能性もあります。
その場合の嫉妬は、自分に対する理不尽な処遇への不満、恨みですね。彼は、自身の地位など待遇が自分の才能に比して低いのは、誰かに嫉妬され、悪意を抱かれていたせいだと思っていたかもしれません。それは晩年の「毒を盛られた」という言葉からも推測できます。
しかしもう一歩踏み込んで考えますと「強制的に嫉妬させられた」という恨みがあったとも考えられるのです。
彼は本来なら、サリエリの地位獲得術に嫉妬する必要はありません。音楽とは関係がないからです。
嫉妬する必要がないことに嫉妬せざるを得ないことほど、天才にとって屈辱的なことはありません。
そんな、「本来どうでもいいこと」で嫉妬させる相手に、恨みを増幅させたかもしれません。
何を言いたいかと言いますと、ルサンチマンの元になっている不遇さへの不満、そしてそれを正当化することが、単なる妄想である場合と、事実に即している場合があるということです。

才能豊かで能力が高い者が、高いがゆえに不遇な目に遭うということ・・
これは、必ずしも妬みによるばかりではありません。
サリエリがもし、モーツァルトに嫉妬してモーツァルトを陥れたとするなら・・・
サリエリには、天才を理解するという才能があったことになります。
しかし、そんなケースばかりが、天才を埋もれさせるものではありません。
偉大な芸術家が、生きている間に賞賛されることなく、不遇なまま人生を終わるというケースがあります。
最も有名なのはゴッホでしょうか。セザンヌも、晩年少し認められてはきたけど、人生を通して不当に評価が低かったようです。
この、「天才は理解されない」という現象が、しばしばあるために、特に嫉妬の対象になるでもなく、埋もれてしまうケースです。
私はかつて、不思議に思っていたのですが・・、なぜ、それほど評価の低かった人の作品が、忘れ去られることもなく、のちに絶賛されるようになるのか、です。
しかしあるとき、今では誰知らぬことのない、ある画家の絵の実物を見て納得しました。それはセザンヌの水浴画でしたが──私個人はそれまで、偉大な芸術家だという知識がある程度で、実物を見たことがありませんでした。
真の芸術作品の発する波動は凄まじいものであります。頭を殴られるほどの波動に息を呑む思いでした。
それほどすごい波動を発しているものだから、その時点で理解される人ばかりではなくても、のちに理解され、絶賛されるということもまた起きるのでしょう。
絵画については近年、なにかと言えば理屈が先行して、まるで科学か数学、あるいは謎解きのように解説されたり、どれだけうんちくを知っているかが重視される風潮がありますが・・・、
波動を理解することなく、芸術を理解することなどできない、と教えてくれるほどの、魂を振動させる作品というものがあります。理屈やうんちくは、それを踏まえた上での思考の遊びといったところでしょうか。
皆様も、もしパワースポットを求めてどこかに行くなら、本物の美術作品を見に行くのもいいかもしれません。ちなみにどんなに精巧でもレプリカではさほどではありません。元がすごいので、ある程度はそれを再現した波動を発していますが、本物には到底及びがつきません。
偉大な芸術が、その時点で理解されないということと、高度な波動が理解されないということは、通底しているように思えたりもします。

これと似た現象が、スピリチュアルでもありますね。
高度なワンダラーやパイオニアスターシードが、波動の高さゆえに不遇な目に遭う、ということは、しばしばあります。
以前解説したように、人は自分から見て波動域がかけ離れて高度な人の波動域を理解できず、ときには見下し、むしろ自分よりちょっと高い程度の、そこそこレベルの人を凄いと思って心酔したりする、ということは多いのです。
前述のように、芸術もまた波動そのものであり、その人の魂を写し取ったようなものですから、同じような現象が起きるのです。一時代的に賞賛された作品が、しばらくすると忘れ去られてしまい、その時代にはあまり見向きされてなかったものが、のちの時代ににわかに脚光を浴びるという現象です。
サリエリ自身は、モーツァルトの圧倒的な才能を知り、自分が彼に全くかなわないと理解できたかもしれませんが、当時の人々は二人の才能の差を理解できなかった人もまた多かったのではないでしょうか。
モーツァルトのずば抜けた才能を理解できない人には、わざわざ扱いにくい彼を重用するより、サリエリの方がずっと引き立てやすく、また人間関係としてもうまくやっていけたと思われます。
その意味で、モーツァルトがサリエリに嫉妬していた、という可能性もあるでしょう。
しかしそれは、才能を正当に評価されない人が、自分よりも才能も実力も劣る人が賞賛されるのを見たときの、理不尽さを感じる思いから発しているものです。
自分が叶わない相手に嫉妬するというのとは違い、本来なら嫉妬するような相手ではないはずの人に嫉妬するという状況です。
そうした理不尽な状況の中で生まれる思いもまた、嫉妬と言えば言えるわけですが、貧乏な人がお金持ちを恨む感情とは、少し事情が違うようにも感じますよね。
貧乏な人が、お金持ちを恨む時に生じるルサンチマンは、貧しい方が心が清らかだ、とか、天国に行けるとかいったものです。でも貧しい人の方が心が清らかというのは、なんら根拠がありません。
ところが、天才が不遇の為に抱くルサンチマンは、ルサンチマンというよりは、自分に対する評価の低さに対する理不尽な想いです。
実際に不当だから、不当と思うわけです。つまり厳密にはルサンチマンではないですよね。
でも事実不当なのか、それとも本人がそう思うだけの妄想なのか、その時点では明確には分かりません。事実ははっきりしているけど、それを分かる術がないという意味です。
モーツァルトは晩年、自分は不当な目に遭った、才能を嫉妬され、陥れられた、毒を盛られたと言っています。
彼が才能豊かだったことは当時も知られていたし、本当かもしれないと思う人もいて、サリエリが毒を盛ったという噂も、ここに端を発していたようです。
しかし、もしも、当時は全く認められていなかった天才が言ったとしたらどうでしょう。
「あの人、自分では自分のこと天才だと思ってるらしい。被害妄想だよね」と無視されたでしょう。
現代だってそれは同じです。
私は天才だ、という人がいる。だが理解してもらえないとします。
本当に天才なら、世間が認めないのは理不尽な状況です。でも、ただの妄想なら、そこで抱く思い、自分を認めない社会に対する恨み「天才は理解されないのだ」といった思いは、ルサンチマンです。
高度な波動域のスピリチュアリストは、なかなか理解されない、というケースは確かに多いですが、その人が本物であれば、理解されないのは理不尽なことです。でも、その人がただ自分でそう思い込んでいるだけの、実は低レベルな人であれば、そこで抱く思いはルサンチマンです。
なんだか区別しづらいですよね。もちろん、実際の違いは明快なのです。ただ、区別できる人が滅多に存在しないだけです。

光の皆様。あなたがもしもワンダラーやパイオニアであるなら、それはあなた自身には痛いほどに理解できるのではありませんか?
物質レベルの思考しかできない人は、そもそも、 スピリチュアリスト=妄想 と考えます。十把一絡げでルサンチマン扱いとなります。
ナザレのイエス師が、信徒の人達は虐げられると言ったそうですが、これも物質思考の人にはルサンチマンです。でも真実にはそれはイエス師の言うとおりで、気休めではありません。
それを引用してきて、オウム真理教のあの人も言っています。自分達が非難されるのは、かつてのキリスト教徒が虐げられたのと同じだと。でもこちらはルサンチマンと言えますね。
そもそも、本人が本気で、本物だから虐げられると信じていたかだって怪しいものです。自分が重大な犯罪を犯していることや、空中に浮かぶなんてウソだらけだってことは、本人がよく分かっていたわけですから・・。
先日、アニメ会社に放火した人も、自分の作品が盗用されたから、というのが動機だそうですが、
この人も、社会が自分の才能を認めない、作品を盗用されたのは理不尽だという主張があるようです。
一見、死に際のモーツァルトと似ていますが、誰もこの犯罪者を天才だとは思わないし、おそらく本人も思っていないでしょう。
高度なスピリチュアリストとそうでない人、天才と凡人、それらを客観的に峻別するのは難しいですが──高度なスピリチュアリストは高度なスピリチュアリストを知り、天才は天才を知ります。たとえ人々からは認められなくても厳然とした真実であるなら、分かる人には分かるのです。
ルサンチマンとはある種の、思考上の精神安定剤、妄想による気休めのようなものです。ネガティブではありますが。
ナザレのイエス師が、信徒が迫害されるというとき、それはルサンチマンという心理状態ではなく、あくまで事実を言っているだけにすぎないでしょう。しかしオウムなどカルト・テロが同じことを言えばそれはルサンチマンと言えます。モーツァルトが自分は天才だから嫉妬されたといえば事実でしょうが、京都の無差別殺人犯が言えば妄想に基づいたルサンチマンの一種です。

以前、「たとえあなたが一見サエないオッサンに見えたとしても、実は可憐な妖精かもしれないのだ」と書きました。
それは高い可能性で、それに近い姿が、あなたの真の姿だからであって、気休めではないのです。
物質レベルの思考の人は、ルサンチマンという、負の感情を定義し、そのような思考の折り合いかたがあることを見出します。
ですが、私たち「真実の姿」を知る者にとって、それは思考の折り合いではなく、単なる事実認識です。
上述のように、言っていることは全く同じですが、一方は事実認識で、一方はルサンチマン、気休めです。
ですが、それが事実だとしても、それによって──つまり周囲の人や社会の、自分に対する評価が不当に低いとあなたが思うことが──あなたに、周囲や社会への恨みやいらだち、ときには嫉妬を起こさせるなら、それはあなたの心を害します。
モーツァルトがサリエリに嫉妬を抱いた可能性があると書きました。才能が無い人が天才に嫉妬を抱くなら分かるけど、なぜその逆が起きる可能性があるというのか。それは、人々が才能を認めてくれないことによって、彼への評価が不当に引き下げられている一方で、凡庸で才能の無い人間が賞賛されることからくる嫉妬です。
波動域の高いスターシードや祈り人が、周囲から見下されるときも、これに近い思いを抱くことがあります。
それは本来なら、抱く必要のない嫉妬です。今の人類を救う最大の能力は、祈り、マントラを唱え、瞑想ができることです。それらは、できる人にとっては、誰でもできると思うでしょうが、実際は一定以上に高い波動的な素養がある人にしかできず、一度や二度できたとしても、続けることができません。
今時点でそれをやっている人は、肉体世界になぞらえるなら最も才能豊かな人なのです。しかも、人類にとって最も必要な才能なのです。それをあなたは持っています。誰かに嫉妬する必要などないはずですよね。
にもかかわらず、周囲がそれを気づいてくれず、本来ならあなたの働きに、ひれ伏して感謝してもいいくらいのところ、誰も評価せず、その一方で、どうってことない人を人々があがめたり尊敬したりしてるものだから、あなたは動揺し、自信を失っているのです。
あなたは埋もれた天才のようなもので、滅多にいない存在なのですから、まず、それが事実であるということを、あなた自身に理解させる必要があります。
あなた自身がそれを深く理解し、そのことにゆるぎない確信を抱けば、まず何よりあなたの心が安堵し、周囲への不満や嫉妬もなくなります。
今の状況が、あなたにとって不当に評価が低いとしても、
頭上の壁を突破したとは言いがたい、閉塞感を抱く状況であったとしても、
それらのことは、一時的なことにすぎません。
そうであるために──それらが一時的なことにすぎず、すぐにでも閉塞的な状況から解放されるためには──
あなたは、まず、自分にとって社会が理不尽だと思っているなら、それをやめなければいけません。
また、上述のように、周囲の過小評価により、あなたが、本来なら嫉妬する必要の無い相手に嫉妬したりしてしまうなら、その嫉妬の感情も手放しましょう。
なぜなら──ここが大事なところですが──そう思っている間は、「一時的なこと」のはずの閉塞的状況が、いつまでも果てしなく続くからです。
なぜかというと、オウムなどのカルトや、自分の不遇を社会のせいにする無差別殺人犯と同じ心理状態になっているからです。実際はあなたは違います。でも心理状態としては同じになってしまっていることで、その心理状態に見合った状態が延々続くことになるのです。
これは比喩的な言い方ですが──もし波動レベルを美しさで言い表すなら──こう思ってください。
あなたは絶世の美女なのです。
その美貌は永遠で、衰えることもないのです。
あなたの周囲の人は、あなたの美しさに気づかないかもしれませんが──
それは彼らの目が曇っているからで、あなたの責任ではありません。
ですからあなたが、他の平凡な容姿の人がモテたり賞賛されたりしてるのを見て、羨んだり嫉妬したりする必要はありません。
そのあなたが「私は本当は美しいのだ」と思うのは、ルサンチマンではありません。だって事実なのですから。
こんなことを、物質レベル思考の人が聞いたら、それこそ妄想だと思うかもしれませんが──、
気にしないでください。本当に彼らは視力が著しく低いのですから。
いずれ、ちゃんと目が開いた人に出会います。やがて、そういう人ばかりになります。あなたは周囲から賞賛されるでしょう。
仮にそれが妄想だとしても、あなたが事実認識すればいいのです。
なぜなら、あなたがそう認識すると、そうなってしまうからです。
あなたがそう認識している限り、あなたは嫉妬もしないし、世の中を恨んで犯罪に走ったりもしません。
犯罪に走る人は、口では何を言おうと、本心では自分が天才だとも、絶世の美女だとも、究極の悟りを開いたとも、信じていません。
自分の思い通りにならないから嫉妬したり、犯罪に走るのです。
ということは、あなたが自分がそうであると思っていれば、それはルサンチマンではないし、嫉妬もしないということです。
あるのは事実認識だけとなります。
これは基本セオリーです。
あなたが、「こうでありたい」と思う状況があるなら、
その状況になった時の心の状態を先に作ってしまう、
これは鉄板の心理メソッドなのです。
美しいあなたは、美しくない人に嫉妬しない
ならば、あなたは嫉妬しない
社会があなたを正当に評価する
ならば、あなたは社会に理不尽さを感じない
世界が自分の思い通りになる
ならば、あなたは世界に不満を抱かない
この、「嫉妬しない」、「理不尽さを感じない」、「不満を抱かない」等──、
あなたが望むことが実現したとき、つまりそうなった時にそういう気持ちになるであろうことは──
「そうなった時に、そういう気持ちになるよ」ではなくて、
あなたが、いま、そういう心の状態になってしまうことが、
頭上の壁を突破する、必須のメソッドなのです。
そうなったとき──、あなたの心が、露ほどの疑いもなく、そうなったとき、
光の扉が、あなたの中で開くのです。
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